台湾 塩寮訪問記録 放射能汚染家屋・塩寮紀行

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■■■放射能汚染家屋

□放射能カラオケスナック

  14日午後、放射能汚染された家屋を被害者協会の許思明さんの通訳&案内で見て回った。最初にいったのはカラオケスナック。日本の繁華街と同じような雰囲気の場所で、違和感がない。人気のないビルが汚染ビルで、許さんがガイガーカウンタを近づけるとみるみる数値が上がっていく。そのまま放置されているのが信じられない。両脇のビルからは退去しているそうだが、向かいのビルはオフィスになっており、普通に働いている人たちが見えた。
  台湾ではカラオケはKTVと呼ばれ人気が高い。また、台湾では日本の歌もたいへんポピュラーなことから、日本語の歌も多く、日本人が台北でカラオケにいっても歌う歌に困ることはない。このカラオケスナックにも多くの日本人が来ていたということだった。

 

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左の赤茶のビルが汚染ビル。
ここのウェイターはまだ20代で白血病になったという。

 

□放射能マンション

  次にいったのは、汚染マンション。一階が不動産屋になっており営業している。4,5階が特に汚染がひどくカウンタが一気に上がる。
  2階に降りて、ガイガーカウンタをあてていると、人が出てきた。19歳の男の子で今は一人で留守番だという。許さんが話して中に入らせてもらう。もう10年以上住んでいるそうだが、普通に暮らしている生活空間の棚などでもガイガーカウンタをあてると数値が上がっていく。
  男の子の家族は両親と22歳の兄。大学生だという彼の書棚にはコンピュータ関連のWindowsの本がたくさんあった。
  日本の科技庁にあたる台湾の原能会では、ある程度以上の数値が出ると元の値段の80%の値段で買い取ってくれるそうだが、それ以下だといくらかの金を補助として出すだけだという。そのため、こうした家族は他の場所に移ることができないでいるのだ。

 

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黄色い看板がたくさんついているビルが放射能汚染マンション。
一階の不動産屋は営業していた。

 

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汚染マンションのドア付近。原能会が立ち入り禁止の札を貼っている。

 

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これは、男の子が住んでいるマンションの中。
普通に生活している空間で簡易なガイガー計で容易にわかる放射線があるのはやはり信じられない気がする。

 

■■■放射能汚染家屋被害者の集会

□原能会の主催

  16日の午後には、そうした放射能汚染家屋により被害を受けた人たちの集会を訪ねた。被害者協会主催でのこうした会は何度かあったが、この日は原能会(行政院原子能委員会、日本の科技庁にあたる)の主催で、原能会主催によるこうした会は始めてだという。
  会そのものは被害者の家族たちを招いたもので、著名人たちのスピーチの合間に、抽選大会が6回もはさまり、そのたびにインラインローラスケートや空気清浄機、なぜかチョーヤの梅酒などが当たっていく。これで参加者をひきつけておこうという手だ。あまりにあからさまで、日本ではちょっと考えられないように思うのだが、こちらではそうめずらしいことではないらしい。

 

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手前が胡錦標主任委員(日本でいう大臣)、後ろで演説しているのが放射能家屋被害者協会の王玉麟さん。

 

□大臣へ質問!

  少し遅れて到着した、胡錦標主任委員(主任委員は各委員会の長。委員会が日本の省、したがって主任委員は、大臣にあたる)も席に座り、総合座談というコーナでは手を上げた一般の人の質問に答えていた。佐藤大介も手をあげ、許さんの通訳で、あのような汚染マンションに人が住みつづけることは日本でも世界でも考えられない事態であり、原能会は安全を重視した対応を直ちにとって欲しい、と発言し、拍手を浴びた。
  大臣がこうして直接市民と対峙するすることなど日本では考えられないことだが、彼の答弁は制度の不備や権限がないことを理由に、対応できない、の一点張りだ。こうした形式的な答弁が被害者の目前で行われ、それをそのまま聞き流す集会というものもやはり日本では考えられないように思われた。

 

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なんと胡錦標主任委員に質問する佐藤氏。
胡氏は直立不同で聞いている。

 

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胡錦標主任委員に本格着工していないはずなのに、第四原発の工事が進んでいるぞ、と詰め寄る被害者協会の許思明さん。

 

■■■FM放送に出演

 

□とっても身近な放送局

  14日午後、寶島客家電台というところで、FM放送に出演した。これは当日聞かされたスケジュールだったのでさすがにびっくりした。
  どうやら、台湾では日本に比べて放送に関する許認可がゆるいようで(日本が厳しすぎるのだろう)多くの放送局があるようだ。FMラジオを持っていったのだが多くの放送が受信できた。ちなみにそれらのいくつかは、 http://www.frodo.u-net.com/worldwide.htm   よりインターネット経由で聞くこともできる。
  この寶島客家電台はFM98.7MHZ、台北を含む台湾の北半分をエリアとする客家系の人たちをメインターゲットとした放送局で、その木曜夕方17:30から19:00までの90分番組を「台湾環境保護連盟」が持っており、それに佐藤氏と共にゲストとして出演したというわけだ。
  ちなみに、環境保護連盟は、特に放送局に金を払っているわけではなく、向こうは番組を提供してもらえる、こちらは、自分たちの主張ができる、でgive and take で成り立っている、とのことだった。日本とは放送に対する考え方が違うのだろうか、と思わされた。
  そして、これまた直前に聞いたのだが、なんと生放送で、リアルタイムに電話での意見を受け付けてそれにゲストが応えるという趣向だった。生放送というのはちょっとあせった。
  普通のマンションの部屋を改造したような放送局で、待合室兼作業場所、スタジオ、調整室などが普通の住居の部屋のサイズで並んでいる。オープニングとエンディングそして途中3回ほど入ったコマーシャルタイムはあらかじめ録音されたテープが流れていた。保護連盟の鄭さんがメインキャスターを勤め私達の紹介をしてくれる。通訳は今回ずっと同行してくれた許さん。

 

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本番直前の様子。
真ん中の鄭さんはリラックスしているが、両脇の日本人二人は緊張が隠せない。

□神戸から台北へ

  私は自己紹介の代わりに、翌日塩寮で話す予定だったスピーチを一般の方々へ向けて少し変えた内容を話した。

  1995年1月17日、ちょうど4年前、私の町、神戸で地震が起きました。
  マグニチュード7.2、死者6千310人、全壊住宅10万6千棟という膨大な被害でした。
  しかし更に恐ろしかったのはこの写真にあるように、日本の誇る建築技術が崩れ去ったことです。ロスアンゼルスのノースリッジ地震のときも高速道路が壊れましたが、そのとき日本の建築技術者たちはこういいました。
  「日本の高速道路は、もっと丈夫にできているから、地震で壊れたりはしない。」
  しかし、マグニチュード7.2という規模としては必ずしも大きくない地震で日本の高速道路は倒れたのです。

  そしてもう一つ大事なことがあります。
  地震のあと驚くほどの速さで道路や鉄道は復旧しました。しかし、そこに住む住民たち、特にダウンタウンに住む低所得者や老人の住宅はなかなか復旧しませんでした。4年を経過した今もなお、7000人が仮設住宅に住んでいます。そしてそうした人々への援助も充分には行われていないままです。
  私の生まれた町では、多くの老人が住んでいましたが、多くの人が焼け死に、生き残った人も、遠く離れた仮設住宅に孤独のまま生きなくてはならず毎週のように自殺する人がいました。
  日本という国は民衆を助けようとはしなかったのだと思います。日本の技術は、日本の経済力は、企業のため、国のため、金儲けのためであって、民衆のためのものではなかったのです。

  しかし、地震の後、私達に苦しみだけがあったわけではありません。私達は大きな喜びもいただきました。アジア各国からの救援物資です。缶詰、インスタントラーメン、チョコレート。そして義援金。たくさんの援助を私自身もいただきました。そして国交がないにも関わらず民間よりおおくの救援を台湾からもいただきました。
ここで皆様にお礼をいわせていただきます。
  ありがとうございました。
  私は震災に会うまでは、アジアを訪れることはありませんでした。アジアを侵略し、いまだにちゃんとした謝罪も補償も行っていない日本に住む私にはアジアの国々を訪れる資格がないと考えていたからです。
しかし、アジアの国々に援助していただいたことで、私はやっと分かりました。大事なことは民衆同士がまず分かり合うこと。同じ立場に立った民衆として絆を深めること。そうした行動こそが、やがて国の姿勢にも影響を与えていくことになると私は思います。
  皆さんのおかげで、私はここに来ることができました。もう一度お礼をいわせてください。
  ありがとうございました。

マイクの向こうで、鄭さんがOKサインを出してくれた。

 

■■■塩寮紀行

□塩寮の風

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  塩寮の風は強く、「反核四」と書かれた旗がいっせいに翻った。私を迎えてくれたのだ。しかし、それはもっと早くここを訪れたかった、という思いを募らせるばかりだった。

 

□抗日記念碑

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  塩寮は台北から車で2時間ほどである。リアス式海岸が続く各所に漁港があり、多くの漁船が泊まってる。漁港の造りや堤防の築き方、荷積みのためのコンクリートのたたき、スレート葺きの屋根、日本の漁港以上に日本的な気さえしてくる。
  塩寮でのスピーチでは、特に「侵略」の言葉に力がこもった。塩寮は原発予定地であると同時に、日本軍が台湾に最初に上陸した場所でもあるからだ。
  塩寮抗日記念碑の銘板には、私は日本軍がここに上陸したときのことが書いてあるのだとばかり思っていた。しかし、実際にはそこには侵略から解放までの歴史が書いてあった。そうだ。この碑は、日本軍が上陸したことを記すだけではない。日本軍を追い払った、まさに抗日の記念碑なのだ。
  記念碑のある塩寮海浜公園は、原発の工事が進む中、立ち入り禁止になっている。取水口、排水口の周りは取り壊されるのではないかと思われる。私達は塀を乗り越えて記念碑を見にいったが、次に来るときは記念碑も取り壊されているのかも知れない。
  しかし、もっと恐ろしく、もっと恨のこもるであろう抗日記念碑を、私達の国は自らここに建てようとしているのだ。

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日本軍が最初に台湾に上陸した塩寮の海岸。

□漁業の苦境

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塩寮の漁港。
この日は波が高く漁にはでられなかった。

 

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塩寮反核自給会の寄り合い所で。

  不況の影響は漁業にもひびく。鮑の値段は一時の半額にまでなっているという。塩寮のように台北という都市を身近にした漁港では、冷凍や塩漬けなどの加工品より、鮮魚のまま消費地へ送る割合が高いから、都市の好不況の影響がより直接ひびく。しかも、船や網の補修費や燃料代は安くなるわけではない。
  台北県貢寮区漁会 総幹事(日本の漁協組合長)林界春氏は、デモや集会といったこれまでの運動では抵抗しきれなくなってきた、と語った。電気代が一定額まで自動的に無料になってしまったのを始めとして、生命保険、CATV、衛星TV、医療、老人医療、小学生の給食費なども台湾電力が払うという。そして、更に旅行に連れて行くなどの個別の接待が始まっている。日本と同じやり方、日本から学んだやり方だ。
  しかし、今はまだ彼の漁会は1億8千万元(約7億円)を積まれても、漁業権を売り渡すことを拒否している。
  97年には130艘の船をあげて海上を誇らしげに走りまわった彼らも、今は日本の新たな侵略の下に苦しんでいる。

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ここから3枚の写真は1997年の様子。
海上デモを繰り広げる塩寮の漁師たち。
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日本とUSAの旗が書かれた原発模型。この後、この模型は海上で燃やされた。
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演説する人々。台湾ではなぜか、みんな演説がうまい。

□塩寮反核自救会

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媽祖(まそ)を祭る廟。
媽祖は航海の安全をもたらす女性神。あちこちでこのような廟を見かけた。

 

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軽トラックで豚肉を売る女性。道を聞いたので教えてくれている。

  反核自救会の会長はしかし、方向転換の時を迎えたのだ、という。これまでの地元で声をあげるのではなく、国会議員や監察院へ訴えかけるときなのだ、という。
  そういえば、私が会いたかった楊さんがいない。彼女は台湾環境保護連盟の貢寮郷の代表でもあり、必ず会えると思っていたのだが。
  スピーチで私は新聞社が出している震災の写真集を見せた。私の町を守れなかった日本は、塩寮も守りはしないのだ。それまで後ろのほうでタバコを吸っていた若者が前の席に移り、身を乗り出して見ている。
  今なら、まだ間に合うと思いたいのだが。

  塩寮を離れようとするとき、おばあさんが話しかけてこられた。台湾語らしくまったく聞き取れない。そばにいた人がどうやら、この人は日本語しかわからない、といってくれているようだが、おばあさんはそれでもなお話し続ける。
  よく聞いていると少し日本語が混ざっている。「お金が ない」「お父さんが」聞き取れたのはそれだけだったが、私にはおばあさんのいいたいことが痛いように分かった気がした。

 

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