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オープニング
■始めよう未来へ希望をつなぐため

司会をやらせて頂きます。「さよなら原発神戸ネットワーク」の、北川と申します。よろしくお願いします。

  「市民による環太平洋反原子力会議」を今から始めていきたいと思います。今回の会議には海外からも国内からもたくさんのゲストにお越し頂きました。まず、海外からのゲストの方々を紹介します。アメリカからおいで頂きましたドロシー・パーリーさんと娘さんです。娘さんは、ドロシーさんがお体の具合が悪いので、一緒に来られています。同じくアメリカからクレア・グリーンスフェルダーさんです。韓国からムン・ユミさんと、キム・ボンニョさんそしてソ・ジュオンさんです。インドネシアからは3人の方々にお越し頂いています。

  では最初に、神戸市民を代表して、長い間神戸で反核運動・平和運動をされている大先輩であります、丸山さんの方からご挨拶をお願いしたいと思います。


■神戸市民から歓迎のあいさつ

丸山尚夫

  ご紹介頂きました丸山です。まず始めに、二日間にわたるこの会議で講演していただく、国内外の方々に心からお礼を申し上げたいと思います。

 そしてさきほど司会の北川さんから、反核運動・平和運動をやってきたと紹介していただきましたが、余りたいしたことはしていません。しかし核兵器であれ、原発であれ、すべての核と人類は共存できないと考えています。けれども、ちょうどいま衆議院の選挙が行われていますが、ほとんど核の問題を取り上げて選挙をやっている人がいない、というのが日本の現状です。

 それから、明日から神戸で開催される「環太平洋原子力会議」に「死の商人」や「地獄のセールスマン」達が集まり、核兵器・原発を作りインドネシアなどへ輸出しようとしています。実は、この会議のことを私も知りませんでしたが、そのまま神戸で開催されるというのは、悔しいものですし容認することはできません。

 また神戸は皆さんもご承知のように、昨年の1月17日、阪神・淡路大震災があり、私も肉親を二人失いました。阪神・淡路大震災の前から開催が決まっていたとはいえ、300万人を超える被災者を逆撫でするもので、その会議に笹山市長が歓迎の挨拶をすることを私は糾弾して抗議していきたいと考えています。私は核と人類は共存できない、またヒロシマ・ナガサキが被爆したという原点を忘れず今後も運動を続けていきたいと考えています。

 特に地震の問題ですが、地震はある日突然やって来ます。地震に直接遭った経験のない方は余り感じないかも知れませんが、私は神戸の地震以外に1960年のチリ地震の津波を始めとしていくども地震に遭い、そのたびに恐ろしさを痛感してきました。無数の活断層がある地震列島日本には原発は建ててはならないのです。

 1日も早く、原発のない日本、そして今ある原発を廃炉にしてすべての核のない世界を目指していく。それが子供たち孫たちにきれいな自然を残していくことになると考えています。私も勉強をして反核・反戦運動を拡大していきたいと考えています。簡単ですがご挨拶に代えたいと思います。どうもありがとうございました。

 

ありがとうございました。
それでは実行委員会のとーちさんから、今回に至った想いを簡単に述べさせて頂きたいと思います。

 


■神戸からの想い

とーち

 1995117日。私は生まれ育った町が燃え続けるのを見ていました。西菅原市場の魚屋で育った私の、思い出と、歴史と、母の店と、そして愛する人々は、焼き尽くされました。

 その後、多くの国々からの援助物資をいただきました。チョコレート、缶詰、インスタントラーメン。そのほとんどはアジアの国々からのものでした。

 日本はアジアへの侵略を続けてきました。そうしたこの国の情けなさと、アジアの国々へのありがたさに、泣きながら私は援助物資を食べたものです。まずこの場を借りて援助いただいたアジアの人々へお礼をいわせてください。ありがとうございます。

 しかし、日本はさらにアジアへ原発を輸出しようと、「環太平洋原子力会議」をこの神戸で開こうとしています。私たちはそれをどうしても許すことができません。だから、環太平洋の国々の人々と連帯して核のない環太平洋地域にしたいと願いこの「市民による環太平洋反原子力会議」を開催することにしました。

 幸い、海外からも国内からも多くのスピーカーの方の協力を得ることができ、とても充実した内容になると思います。この会議をきっかけに更に私たちの連帯の絆を深め、核のない環太平洋を創りましょう。

 さあ、はじめます。

 

先程のスピーチで、なぜ私たちが神戸でこういう会議を企画したかが分かって頂けるかと思います。
ここでお手元のプログラムに書いてある台湾ゲストの方が来られていないことについて、実行委員会の佐藤大介から経過を述べさせて頂きたいと思います。


■台湾の現状について

佐藤大介

 台湾の方から、リャオ・ビンリャンさん、シ・シンミンさんのお二人が来ていただける予定でしたが、5月24日、台湾の立法院(国会)で、原発を建てないという画期的な決議が通りました。これは野党である民進党が頑張ったためですが、同じ日に、台湾電力が国際入札を行い、25日の朝にかけて東芝・日立・GEが落札しました。その後、GEが落札したから損害賠償を請求する、ということでプレッシャーをかけてきていました。台湾は、立法院より行政院が強いため、行政院が先の決議の再審議の要求をしていました。そして今週が台湾の国会のやま場になって、国会内外で怪我人が出る混乱の中、ちょうど昨日、1018日、とうとう再審議が行なわれてしまいました。

 立法院の定員は164名ですが、83名、ぎりぎり一票過半数を得て、与党・国民党が強行採決し、原発は建設するということが、昨日国会で決まりました。前回の決議が破棄されたことで、原発に反対する半数近くの議員は全員ボイコットして、今回の国会は無効だと抗議して夜遅くまで混乱していました。その中で、与党・国民党がぎりぎり一票過半数で原発建設を決議してしまったのです。

 大変な状況ですから、シ・シンミンさんもリャオ・ビンリャンさんも中心的な人物で、今日は今後の対策を検討しているので来れません。皆さんに謝っておいて下さい、ということです。

 台湾はこのまま行くと日本初の本格的原発輸出第1号になる可能性が高いので、私たちも台湾の人達と連絡を取りながら、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。以上です。

私たちの国だけではなく、アジアの人達とつながっていくことを胸に刻みながら、運動していきたいと思います。
それでは生越忠さんの方から、今回の阪神・淡路大震災と原発について講演していただきます。

 


■兵庫県南部地震から学んだもの

生越忠

ご紹介頂きました、生越です。「兵庫県南部地震から学んだもの」というプリントにそってお話させて頂きます。

震災は人災

 まず、兵庫県南部地震、これが正式の地震名です。ところが村山内閣の時に阪神淡路大震災という言葉を略称として使うようになりました。地震の名前と震災の名前は別なのです。地震はまだ現象ですが、震災は多かれ少なかれ人為現象で、特に神戸の場合は行政サイド、つまり乱開発によって、地震の規模はたいしたことはなかったが、被害は大きくなった。これは完全な人災ですね。そういうことをお話したいと思います。

 兵庫県南部地震でデマがだいぶ飛びました。関西には地震は起こらないはずだった。しかし起こってしまった。このデマを飛ばしたのはどこの誰だというと、神戸市の役員が元凶だと思います。関西に地震は起こらないというのは、完全にデマであって地震学者・地質学者は誰一人として、関西は地震があまり起こらない場所だと言った人はおりません。文献学の上での証拠があります。

 

予想されていた地震

 建設省国土地理院長の私的諮問機関である地震予知連絡会は、1970年2月、全国的にみた地震危険地帯として、8か所の特定観測地域及び1か所の観測強化地域を指定し、1978年8月には見直して、改めて8か所の特定観測地域及び2か所の観測強化地域を指定しました。そして、関西では1970年2月の指定の際には、「琵琶湖周辺」及び「阪神」の2か所が特定観測地域に指定され、また、1978年8月の特定見直しの際には、これらの2か所に更に名古屋及び京都を加えた広い地域が、「名古屋−京都−大阪−神戸地区」特定観測地域に指定されていました。

どうして指定したかというと、従来マグニチュード7クラスの地震が関西にたくさん起きた。関東よりも関西の方がたくさん起きている。それから70年に「日本の自然震災」という本が出ました。地震予知連絡会の副会長をやられた力武常次先生の著書ですが内陸のプレート内地震、いわゆる直下型地震で一番危ないのは、敦賀である。二番目は高山、三番目は神戸であると言われ、敦賀や高山の前に神戸が先に起きたんですね。

 

「最大級の地震」はウソ

26年前、地震連絡会がちゃんとした根拠をもって神戸が危ないと言っているんですが、そんなことあるものかと言って乱開発をやってきた神戸市の責任は大きいですね。前から地震がこの地方に起こることは予想されていました。78年、特定観測地域を見直した時に、この地域はおおむね20年ないし、30年にマグニチュード7クラスの地震が起こる可能性が他より高いと判断したので、地震連絡会のことをマスコミが悪口を言っていましたが、私はこれに同意しません。予知はできなくても予測はできるんです。他に当たっていることもたくさんあります。ですから、特定観測地域の危うさが他と同じということはありません。

それから市民に世界最大級の内陸直下型大震災と言いましたが、これは嘘八百です。これは学者も含め、そういうことを言っていたんですが日本の耐震設計はアメリカよりも厳しいから、アメリカで橋が落ちることがあっても日本では落ちることがない、これを専門家の学者は口を揃えて言ってました。そして、日本で落ちると、日本建築学会地震災害委員長で、慶応大学教授の渡部丹が「クローズアップ現代」で、最大級の地震だった、というようなことを言いました。そして外国と日本で起きた内陸直下型地震のリストを見せました。神戸の地震よりも大きな地震は一つも書いていないんです。小さな地震ばかりを並べて、世界最大級の地震といっていましたが嘘八百です。

 災害の規模は大きかったけれど、地震の規模・マグニチュードはたいして大きくありません。中地震に近い、大地震です。巨大な地震ではないが、被害が大きかったんです。これは新聞にはちゃんと書いてありません。例えば、新聞社が出した写真集に「史上初の震度階7」と書いてありますが、416年の遠飛官付近の地震以来1500年余の日本の被害地震の歴史の中で、初めてということになるでしょう。

 でもそれは実は、気象庁初なんです。気象庁が震度7を決めたのは1949年なんです。それ以来、記録では初めてなんですね。それで、当時は6までしかありませんでしたから、7ができた後で6を読みなおしてみると、たくさんあるんです。1847年の善光寺地震から今まで21もしくは22あります。それを今まで史上初の震度7と書いて、いかにも地震が今まで想像できなかった地震だとか書いてありますが、全くの誤りです。1943年には鳥取地震がありましたが、これは神戸と同じ7.2です。死者は1083人です。神戸は同じ規模ですが、死者はその6倍です。この差が、いわゆる行政が過密な都市を作りすぎた、耐震・安全性が定かでない高速道路・新幹線・石油タンク・地下鉄をどんどん作ってしまい、こういう乱開発をやったことの差なのです。

 

人工島も安全ではない

 ということで、決してマグニチュードの大きさでそれに比例して被害がでるものではない。殆どが、乱開発して余計なものを作ったから被害を大きくしていることを一つ知ってください。

 また、「人工島は安全」は大きなウソで、今私は東京都と正面からけんかしているんですが、臨海副都心を見直すと言っておきながら、官僚に騙されて人工島は安全だと言っています。しかし、液状化現象を港で起こしたのですから、それを安全と言うのは何事だ、ということです。液状化の対策はあるのだから心配しなくていいよ、と東京都知事は前から言っていたのですが、これもウソ八百です。どんな地層でも液状化することが分かりました。1987年に千葉県東方沖地震があって、今まで海岸の埋立地とか古い河川敷等、軟弱な地盤で見られたのが、人工島でも液状化することがわかりました。ということでどんな地層でも液状する、水を含んでいて地震の揺れが強ければ、対策はありません。

 

地下鉄も安全ではない

 それから、地下鉄は安全だということ、地下鉄は地上よりも地震動・揺れが小さいから安全だということもいっていたのですが、その事に対して私、20年前に地下鉄の反対運動をしまして、地下は揺れが小さくても断層が生じた場合つまり、地下に隠れていた断層が地上に出た場合は、どんなに強い耐震設計をやっていても、トンネルの地層が壊れたらそれきりですから、そういうことがありうると言ったんです。が、誰も耳を貸してくれませんでした。そうしたら、地層の複雑さゆえに、地層が違った揺れをする、トンネルの上下・横で違う、そういう場合にはトンネルが壊れるわけです。

 私は20年前に出した著書で丁度、会下山断層・池山断層との分岐点で危ないと言ったら、今回そこが壊れました。地下鉄は危険があるということです。

 また予想されなかった地震と言われますが、私はちゃんと予想していました。大阪工業大学の平田先生が六甲ライナーの建設をめぐる裁判を提起されて、その証人として88年12月に証言しました。六甲ライナーは倒れますよ、液状化していますよ、起こったら7クラス以上の地震になりますよと。そういうわけで、神戸市を訴えたのですが、顧問弁護士は私に誹謗中傷しました。地震が少ない関西にやって来て、何を言うかと。市民を騙すことはやめろ、と言われたのです。しかし、私の言うことは全部当たりました。起こった後で、サンデー毎日の記者がやって来て、インタビューに答えました。95年の2月3日の記事ですが、週刊誌の発売日の10日前に出ますから、地震が起こってすぐです。浮かない顔をしていたのは、私がお手伝いをした皆さんが、神戸市で亡くなったのが心配でたまらなかったからです。当たったことは全く不幸だった。ご挨拶で、日本は地震国で、ここなら安全というのはないということに加えて、ここは一段と危険だということがある程度分かっているのです。神戸はその一つです。地震予知連合会が指定したように、当たったのです。行政側はそういうことをちゃんと聞け、と繰り返し主張してきましたが、受け入れられませんでした。

 

開発が被害を拡大した

 更に、地震が終わった後、「神戸黒書」がでました。それには、開発が地震の被害規模を大きくした原因だと書いてあります。実は70年2月に特定観測地域に指定されました。大阪市立大学と京都大学の防災研究所の二人の学者に、地震調査をやってほしいと頼んだのです。74年に結果が出て、壊滅的打撃を与える可能性がある地震が起こるぞ、と書いたのです。私も見ましたが、当時は地震のデータが今と違っていたので、最新のデータに入れ替えてもう一度検討してみたら、結論が同じになったのです。私も、88年12月4日に裁判の証人に応じた時はちゃんとそのように答えました。当時の3人の裁判官は誰も相手にしてくれませんでした。これは門前払いで負けました。最高裁まで行っていたら、裁判長に、言っていたことは誤りでしたと分かるんですね。神戸市の乱開発に手を貸した学者の犯罪、今からでも遅くはないから告発しようと思っています。

 最後に、自然災害に行政は責任を持たない、とはっきり言っています。これは人災なのですから、被害を大きくしたのは行政であって、補償をする必要があります。東京でも運動をしていますが、皆さんもおやりになるんでしたら全面協力させて頂きます。

 申し遅れましたが、この震災で今なお不自由な生活を送られている方々に、心から同情申し上げたいと思います。

 

どうもありがとうございました。


■非核アジア太平洋を

クレア・グリーンスフェルダー

 

 まず何よりも、神戸に招待していただいたことに心からお礼を申し上げたいと思います。

今朝この神戸の町を歩いていまして、坂や水のある美しい自然が、私のふるさとのサンフランシスコのベイエリアを思わせ、ちょっとホームシックにかかりました。そして、私どもの姉妹でありますドロシーとそのお嬢さんと一緒にこうしてここに出席したことを非常に光栄に思います。また、ネイティブ・アメリカンの方々が自分たちの土地に私の家族を5世代にわたって住まわせてくださっていることに、とても感謝しております。私どもの祖先がサンフランシスコにユダヤ系の移民としてやってまいりましてから、そこにずっと暮らさせてもらっています。私はサンフランシスコに育ちましたが、太平洋を隔てて西の方を見て、そして私の祖先がやってきた西洋を見てあそこに私の兄弟、姉妹たちがいるんだと常に考えてきました。太平洋のこの水が私たちをつないでいるのだと考えながら育ったのです。それと同時に、環太平洋の地震地帯、その地震と火も私たちをつないでいると考えてきました。太平洋というのはいわゆる平和な海という意味です。そのような環太平洋に暮らす人間は、やはり平和を乱す核というものに対して反対していく運命を持っている、そしてそれと闘ってこの地球を平和で安全な星にする使命を担っている人たちなのだと考えています。

私は「いのち」と呼ばれる団体の組織者の一人であります。この「いのち」というのは、プルトニウム・フリー・フューチャー(プルトニウムのない未来)のホスト団体です。そしてプルトニウム・フリー・フューチャー(PFF)とは、アメリカ在住の日本人の芸術家や作家の人たち、それからヨーロッパ系のアメリカ人がお手伝いをして運営している団体です。私たちが目指すものは、プルトニウムをはじめ、核に関わるものをすべて廃絶すること、これは核兵器だけではなく原子力発電に関してもそうで、プルトニウムを使うものはこの世から全くなくしてしまおうということです。

私たちは、対立や紛争を解決するのは、やはり平和的な方法しかないと考えております。それと同時に、核の被害を被ったすべての人々、物質的、健康的、精神的な被害を被った人たち、ウラン鉱山で働いていた人たち、核兵器工場で働いていた人たち、放射性廃棄物による被害を受けた人たちのすべてが、その被害に対する補償を精神的にも財政的にも受けることができ、健康に暮らす権利があると考えています。

PFFの活動に関わる前、私はグリーンピースという団体で3年間にわたって核兵器廃絶運動のディレクターをしておりました。ですからそれを通じていろいろな環太平洋諸国に関して、現状でありますとか、20年間どういうことが起こってきたかについて学んできましたのでそれを少しお話したいと思います。

またPFFでもさまざまなプロジェクトを行っていますので、その中のいくつかをお話しします。まず「女性ネットワーク」というものがあります。それから東アジアについての意識を高めよう、東アジアのことをもっと知ろうということもやっています。東アジア地域にあるアジア対アジアの対立に関して、核という観点からお互いに折り合う提言を行っていこうとするものです。同時に六ヶ所村についてのビデオテープも作って、啓発を続けています。それから、安全なエネルギーとはどういうものであるかについての啓発、これについてはラジオのプログラムも始まっています。つまり、さまざまな啓発活動から、運動を深めていこうという働きをしているのです。

 

核が使われたらすべては終わる

私が核の脅威をはじめて知ったのは5歳のときでした。1957年、私はカリフォルニア州のオークランドで学校に行っていたのですが、その時学校で空襲に対する訓練というのがありました。この訓練が始まりますと、子供たちは小さくなって机の下に入るように言われるわけです。この訓練は、当時のソビエト連邦、または中国からの核兵器による攻撃に備えるという名目で行われていたもので、かなり頻繁にありました。これが、子どものころの普通の思い出として残っているほどです。ですからそのころ私は空が怖かったんです。

空襲があるとオークランドは海岸地域なので他の地域より攻撃しやすいんだといわれていました。もちろん両親から戦争のことも聞かされていましたから、怖がるだけの十分な理由があったわけです。ですから私は両親に対して、「防空壕を作ってくれ、核兵器で襲われたときにそのシェルターに入りたいから」と言いました。ところが私の両親は科学者でしたので、そんな事をしても意味がないということを知っていました。私の小学校の友達の両親の中で、はっきりとそのことを子どもに伝えたのは私の母一人だけだったと思います。私は5歳で兄は7歳でしたけれども、そういう小さい子どもに対して、「シェルターなんか作っても仕方がないんだ、核兵器で攻撃されればどうせ私たちは生き延びられないんだ」とはっきりと言ったものです。ところが、私の家が学校の近くにあったもので、同級生の親が「もしそういう攻撃があったらどうぞうちの子どもをしばらく預かって待たせてくださいませんか」と言ってきたのです。しかし私の両親は、「そんなことは気にしなくてもいいですよ。待つ暇なんかないんです。みんな死んでいなくなってしまうんですから」とはっきりと答えました。ですから私は小さい頃から、核というものが使われたらすべては終わりなのだ、ということを実感していたのです。

1965年、私は13歳のときにある新聞記事を読みました。アメリカが全地球を壊滅させることができるほどの核兵器を保有したというのです。ソビエトとアメリカの核兵器をあわせて当時は500といわれていましたが、1982年の段階では5万に増えたということです。私はカリフォルニアの、レッドウッドの茂った水の美しいところに住んでいましたので、どうして人々がこういうことをするのか、こんな美しいところに住んでいて、その自然を破壊するためのものを一生懸命作るなんてどうしてだろう、それは非常に悲しいことだと考えました。

ところが、15歳になって、ベトナム戦争について、そしてそのベトナム戦争が核戦争の引き金になる可能性があるということを知るようになりました。すると13歳のときの悲しみは15歳では大きな怒りと変わっていました。しかし怒りを覚えたといいましても、10代の人たちというのはいつでも何かに対して怒っているものですね。私の場合はたまたまその対象が戦争だったわけです。そして、これに対して何かしなくては、何かしようと思ったわけです。高校では、平和グループを作り、ベトナム戦争が終わるまで5年間にわたってその活動を行いました。

1970年代になると、私は学校の先生になり、10代の人たちを導いていこうと考えました。「この地球や自然をどうやって愛し、大切にしていくのか」そういうことを子供たちに教える仕事を一生続けていこうと思ったわけです。10代の人たちというのは自分のエネルギーを積極的な方向へむけて、そして自然と関わっていくことをきちんと教わる必要がある。都市に住んでいても田舎に住んでいても、人間が自然とどういうふうに関わって暮らしていくかということを知らせたいと思ったのです。

 

スリーマイル事故が人生を変えた

ところが1979年にスリーマイル島の事故が起こって、私の人生の方向が変わってしまったんです。当時私はシカゴに住んで、子供たちに自然について教えていました。シカゴは、原子力発電所が非常に多いところで、13の原子力発電所に囲まれております。そして近隣の電気の70%を供給していました。ですからスリーマイル島の事故を知ったときには本当にショックを受けました。子供たちの将来のために自分は努力しているのに、このような事故が一度起これば彼らの将来はなくなってしまうのだと考えて愕然としたのです。

当時私はすでに政治問題にも関わっていました。社会主義、民主主義に関するさまざまな書物を読んだり、活動にたずさわったりもしておりました。しかし、そういう政治運動の中の友達は私に、「そんなことをしてもしょうがない、もう何も変えることはできないんだから」と言ったんです。でも私は、原子力発電所に関しても、核兵器に対しても、できるだけのものは読んで、できるだけの知識を集めて、できることをやろうと考えてきました。17年前、私は友達から「そんなことをやってもどうしようもない、核兵器がなくなったり、原子力発電の政策に逆戻りの動きがあるわけがない、ばかげている、そんな活動をしていると教師を続けられなくなる」などとさまざまに言われていました。しかし、ここにいる皆さんはおわかりになると思いますが、この17年間のあいだにいろいろなことがありました。さまざまな変化がありましたし、世の中の認識も変わってまいりました。ですから私は、「まだまだ希望はある。いろいろな物事をこれからも変えていける」と思っています。

私は、小さな子供たちに教えていたときに、核兵器はもちろん危険なものだけれど原子力発電も危険で悪いものなのだということを2年がかりで教えました。非常に時間がかかりましたが、それでも教えることができましたから、世の中にそれを伝えることはできると考え、実際に伝えることができたわけです。残念ながら、私が考えていたよりももっと長い時間がかかってしまいました。私は時々思うんですけれども、まだ私はこんなところへ来て「これは危険なんだ」という話をし続けていることに自分で驚くことがあります。ここにおられる皆さんも、小さなグループで活動をしておられると同じような気持ちになることがあると思います。でも、小さなグループでも、周りの人たちにそのことを話し続けることで、だんだんと広がっていきます。同志は増えていくものだと思います。

17年間に変化があったといいましたけれども、ここ17ヶ月の間にも希望の持てる変化があったことをご紹介したいと思います。その一番大きな変化というのは、核兵器、もしくは原子力施設の周囲にいて被害を受けた人々が声をあげ始めたことだと思います。この動きが一番重要なことではないかと思います。学者や政治家が物事を変えていくのだという考え方もありますけれど、実際に被害を被った人たちが声をあげるのが一番強いことであると思います。

1ヶ月ほど前、バトラー将軍という米空軍戦略司令官だった人物がゴルバチョフ財団での講演会で、公にこういう発言をしました。「核というものを全面的にこの地球上からなくしてしまわなければ、世界の平和は訪れない」と。実際に、空軍司令官というような地位にいた人が公に核を否定する発言をするというのは、すごいことなんです。国際司法裁判所においても、どのような条件の下であったとしても、核兵器の使用は国際法に反していると発表しました。

 

原発と核兵器は切り離せない

最近、CTBT(包括的核実験禁止条約)に124カ国が署名をしましたけれども、40カ国の、原子力発電所を持っている国全部がこれに署名しなければ発効しないことになっています。ということは、初めて世界的に、原子力発電と核兵器というものが切り離せないものであるということが認められたわけです。これまで、核兵器と原子力発電は別といってきた言説がくつがえされたわけです。原子力発電所を持つ国は、とりもなおさず核兵器を所有する力を持つ国であるということが公に認められたのです。昨年5月には、中立国といわれてきたスイスが、43年間にわたって核兵器の開発を進めていたことを認めました。1988年に冷戦が終わり、はじめてそのプログラムが廃止されたということを発表したのです。また34人のノーベル賞受賞者が調印して、核兵器と同時に原子力発電の廃止を求める請願も提出しております。

私がこの運動を始めた17年前には核弾頭の数が5万でした。ところがこれが今は2万になっております。アメリカは、技術的には生産は行っていないというふうに言っています。これは少々疑義があるかもしれませんが、この17年の間に3万の核弾頭が減ったわけです。

先ほど述べた包括的核実験禁止条約の124カ国の中で最初に調印したのがフィジーです。これは非常に意義深いことだとお思いになりませんか?全世界の国々の中で、太平洋諸国の一つであるフィジーという国が最初に調印したのです。太平洋というのは、戦争中にはじめて核兵器が使われた場所でもあるのですから。

とはいえ、原子力発電も核兵器も、それを推進しようとする人たちは今も計画を進めておりますし、現にこの神戸の地でも関係者が集まって推進の議論をするわけです。私たちも、科学者や政治家たちだけではなく、一般市民の知恵を集めてこれに対抗する努力をしていかなければなりません。

私はこの問題を、政治的な問題というよりは、もっと大きな精神的な問題であると考えています。科学者が集まって何を議論するかというと、より安全で害の少ない武器はないものかとか、原子力発電にしてももっと安全な形でできないかというような話をしているのです。つまり、核産業、原子力産業の経済を安定的なものとして保っていくにはどうしたらいいかということが問題なのです。経済の安定性というようなものを、人間の命より上に置いている。価値観が全く転倒してしまっているのです。ここで私たちが考えなければならないのは、聖なるもの、人間にとって本当に大切なものは何なのかということです。核兵器を使用し原子力発電を続けながら、なんとかその中で生き延びる道を探すのではなくて、そういうものを使えばもうすべてがおしまいなのだということをしっかりと認識することが大切なのです。私は小さいころに「核による攻撃があればもう人間の存続はない」ということを教えてくれた母にとても感謝しています。これこそが私たちが直面している問題の解答なのであって、これを皆で認識することができれば、核のない未来を実現することは可能ですし、核のない21世紀を迎えることもできると考えています。

その精神的な変革、啓発をしていくためにどうすればいいかということで言いますと、個々の人々が、またそのそれぞれの文化が何をできるかということを出し合って、それを実行してみることだと思います。私は私個人として、アメリカ人としての文化の中でできることがあるだろうと考えています。

やはりアメリカという国は、アジアの国々を非常に痛めつけてきました。それに対して謝罪をして和解を図らなければならないし、それと同時に同胞でありますネイティブ・アメリカンに対して行ってきたさまざまな過ちに対しても謝罪をして和解を図るということから始めなければならないと思います。私はここへ参りました一人の人間でしかありませんけれども、ここへ来た一人のアメリカ人として、広島、長崎へ落とされた原子爆弾について心からおわびをしたいと思います。同時に、ネイティブ・アメリカンの人たちに対しても、ウラン鉱山や核実験場でさまざまな核に関する被害を与えましたことをアメリカ人として深くおわびをしたいと思います。こういうことから行動が出てくると私は考えています。

WATASHIHA DEKIMASU!

(わたしは、できます!)

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