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第一回 日本
東京 ノーニュークス・アジア会議

各国報告 日本



日本における反原発運動
これまでと現在




菅井 益郎
経済学者

西尾 漠
原子力資料情報室、「反原発新聞」


司会(コラソン)
 次に日本からは、菅井益郎さんと西尾漠さんが報告されます。

菅井益郎(日本)
 アジア各国のみなさん、遠いところをどうもご苦労さまです。私はエコノミストと紹介されましたが、大学では鉱山の公害の歴史を研究しており、大学の外では69年以来、柏崎の原発反対運動をやってきました。ですから活動家のひとりとして、みなさんとともにやっていきたいと思っています。

日本における反原発運動
 日本の反原発運動の歴史は、60年代の後半から今日にいたるまで、おもに現地の住民運動が担ってきました。大都市の方は、チェルノブイリの原発事故が起きて、輸入食品の汚染とか、伊方の出力調整試験などが問題になるまでは、それほど大きな運動にはなりませんでした。
 この20数年の運動をふり返ってみると、それぞれの地域のあり方、あるいは置かれた諸条件があるので、運動のあり方を統一的な基準で見ることはできません。しかし日本の原子力行政あるいは反対運動は、やはり大事故を契機に運動のあり方が変わってきたと考えられます。そこで、最初から現在までをだいたい4期に分けて考えたいと思います。1974年8月に原子力船「むつ」が放射線漏洩事件を起こすまでを第1段階、次の段階はスリーマイル島の原発事故が起こった1979年まで。そして1986年のチェルノブイリ原発事故まで。そしてそれ以降に区切って考えたいと思います。

現地住民運動の高まり
1960年代後半〜1974年
 第1段階の60年代の後半から74年までを見ると、はじめは激しい反対運動が起こらなかったのですが、60年代の終わりになって各地で激しい反対運動が起こるようになりました。最初は東京電力が福島に、関西電力が美浜に、日本原子力発電が敦賀に、そして中部電力が芦浜に原発建設計画をたて実行に移すのです。その結果、たとえば長島事件に象徴される激しい反対運動が芦浜では起こったのですが、それ以外は比較的スムーズに進みます。
 しかし69年から71年にかけて、福島県では浪江、小高、宮城県では女川、新潟県では巻、柏崎、愛媛県では伊方といったぐあいに、それぞれの地域で非常に激しい反対運動が起こってきました。それらの地域の住民は、地域開発や用地の売却代金、あるいは漁業補償といったものをあてこんだ誘致派と、地域内部で激しい闘いをしなければならなくなります。これは地域を二分し、それこそ親と子、あるいは親戚どうしが争うという状況のなかで闘いが続いたのです。住民たちは様々な官憲の弾圧とか、会社の上司による圧力を受けました。もちろん住民はこれをはねのける闘いを続けましたが、実際問題としては目の前に札束の山を積まれると、やはり崩れていく人も出てきます。そして柏崎での計画は10年遅れましたが、たとえば伊方とかほかの地域では、建設が始まってしまいます。
 いったん土地を売り、漁業権を手放してしまうと、その後の建設へのスピードは極めて早いものです。安全審査が6ヵ月から1年という非常に短い時間で行なわれ、ほとんど中身の審査がなされないままに、内閣総理大臣による建設許可が出されてしまいます。そうしたなかで伊方や東海村の人々は73年、行政訴訟を起こします。73年は第1次オイルショックが発生したときですが、原発推進側は安全性を売り物にすることができなくなっていたので、原子力発電は経済的である、エネルギーの安全保障にとって必要であると宣伝したのです。しかし、原子力発電所が建設されようとしている地域は、どこの国でも同じだと思いますが、都心から離れた風光明媚な地方の辺地にあるわけです。ですから、本来、エネルギーなんか必要ないところなのです。エネルギーが必要である、電力が必要であると推進側があおればあおるほど、住民の方は、それだったら東京につくってくれ、電力を使うところで発電所をつくれと、こう主張して反発していったのです。

原子力船「むつ」廃船運動
1974年〜1979年
 そして、74年に入って様々な事件が起こります。まず74年8月には、政府が期待していた原子力船「むつ」が、漁民たちの激しい反対のなかを官憲の力で突破し、試験航海に出ます。しかし、まもなく非常に単純な遮蔽ミスによる放射線漏洩事件を起こしてしまい、漁民や住民たちはこれに対して徹底的に闘います。「むつ」は母港のむつ港には戻れず、2ヵ月も外洋をさまよう事態になりました。この事件によって、たとえば東京の消費者運動とか、あるいは各地域の市民の反原発運動が起こってくるのです。
 一方、政府にとっても「むつ」は非常に重大な問題で、日本の原子力行政、特に安全審査のあり方の問題点を浮き彫りにしました。このために原子力行政のあり方を変える様々な委員会がつくられていくわけですが、その結果1978年になって、原子力基本法の一部が改正され、アメリカと同じように、原子力を推進する原子力委員会と、安全審査を行ない規制する原子力安全委員会というふたつの委員会をつくることになったのです。ところが実際には両方とも、これまで安全だといって原子力を推進してきた人たちがかかわっており、まったく形のうえで分けたにすぎません。アメリカの原子力規制委員会(NRC)のように、まあNRCがいいとは限りませんが、独立したスタッフをもって審査することにはならなかったのです。
 住民の反対運動は「むつ」を経験して非常に高まってきます。これに対して政府は74年6月に、いわゆる電源三法、原子力発電用施設周辺地域整備法を制定しました。これは田中角栄が後押しをしてつくったのですが、その意図するところは、地域の人間の原発反対を和らげるには、地域に見返りの金をだせばよい、つまり合法的に地域住民を買収するための法律をつくったのです。これにより地域が切り崩された面はかなりあると思います。しかし一方では、これをはね返して闘ったところもたくさんありました。たとえば山口県の豊北町のように、かなり進んでいた計画もはね返しています。
 さらに70年代の後半に入ると、たとえば東京などでもいろいろな市民運動グループが出てきます。そして全国の運動をネットワークするような動きが出てきます。77年から反原子力週間が始まり、現在にいたっていますが、そういうネットワークづくりが進んだといえます。

反原発運動の拡大
1979年〜1986年
 こうして政府にとっては原子力の推進が困難な状況が生まれてきました。そこで政府は、78年の原子力基本法改正により突破口を開こうとしました。しかし翌年、79年3月にこれまで起こらないといわれていた原子炉溶融にいたる原発事故が、スリーマイル島で起こったのです。またしても推進側にとっては挫折です。
 このときに、われわれは東京でも全国の住民と連帯して政府を追及しました。政府は、日本の原発はアメリカの原発とは構造が違うんだ、だから安全なんだ、とくり返しました。でも、スリーマイル島の原発は日本の原発に、ある意味で非常に近いものでした。にもかかわらず、まったく違うといって逃げたのですから、誰もこんなことを信じなかったと思います。そしてこれは、86年にチェルノブイリ原発事故が起きたときも、まったく同じでした。
 さて、政府はその後、原発推進の世論づくりを進めていきますが、2年たった81年のはじめに一連の事故隠しが表面化します。そういうなかで、高知県の窪川町では原発推進を唱えていた町長がリコールされる。反対派はリコール後の出直し選挙では敗れますが、その後、窪川では住民運動が一層強まり、原発に頼らないような町づくりをするということに力を入れ、現在では原発計画は完全にとまってしまいました。
 ここで推進側は、78年の原子力基本法改正によってつくった公開ヒアリング制度を、各地で実施しはじめます。80年12月には、彼らがいちばんの標的にしていた柏崎においてこれをやりました。非常に激しいみぞれの降るなかで、反対派は8000人、推進側の用意した機動隊は6000人という極めて激しく大規模な闘争が行なわれました。その後の柏崎では原発の建設が進んでしまいますが、この公開ヒアリングに反対する闘争はほかの地域にもどんどん拡がっていきます。つまり原発推進の儀式である公開ヒアリングは絶対やらせないと、各地で阻止行動がとられるようになったのです。そしてこのヒアリング阻止行動には、都市の人々もどんどん参加していきました。それは都市と地域の住民の結びつきをつくる役割を果たしました。
 その当時、東京では核燃料輸送ルートにそって運動を組織していくという動きも起こってきます。また国際放射線防護委員会(ICRP)の77年勧告、現在では90年勧告が出ていますが、77年勧告の採用について政府を追及する運動などが80年代前半に強く行なわれたと思います。
 80年代の前半というのは、日本は経済的には長期不況で、おまけに第2次オイルショックのあとです。電力の需要が減っていくなかで、70年代半ばに建設を始めた原発が次々に完成していき、電力供給が急速に増えてしまう。つまり80年代前半から86年ぐらいまで、電力大過剰時代に入ります。そこで電力会社は、200ボルトの電源をつくりどんどん電気を使わせるとか、需要開拓部隊を組織するなどしてきました。そしてこれに対する消費者の反対運動も高まってきたといえます。

反原発から脱原発へ
1986年〜現在
 そうしたなか、86年にチェルノブイリの原発事故が起こりました。各地域での反応は非常に速かったのですが、反対運動に出てくる人々の数はまだ少なかったように思います。それが1年、1年半とたつなかで、チェルノブイリ事故の問題が社会に浸透していきます。そんななかで、四国電力が1988年2月に伊方原発の出力調整試験を行なうということになったもんですから、これはチェルノブイリ型の実験と似ているんではないかと人々が非常に不安になり反対に動きだす。またこの年の4月に、チェルノブイリ原発事故2周年を記念した集会が持たれ、1万人を予想したところが、2万人以上も集まってしまうという非常な盛りあがりを見せていったのです。こうした集会を背景にして、国会において脱原発法を制定させようという動きが出てきて、それがかなりの盛りあがりを見せました。また、日本は原子力に関しては徹底的な秘密主義ですので、アメリカの情報公開法を用いて日本の原発の問題点をひき出すという新しいユニークな活動も出てきます。
 89年には福島第二原発で、91年には美浜でも想像しなかったような事故が発生しました。こうしたなかで、89年にはチェルノブイリ原発の被災地に対して救援活動を行なう運動も起こってきます。これまで反原発運動にかかわってきた人だけでなく、その他の人々も加わったこの運動はいまも進んでいます。こうして運動の裾野は非常に広がってきました。ただし状況は、われわれにとって好転したのではないと思います。日本政府は、世界各国が原発から手をひいていくなかで、フランスと日本が世界の原発建設をリードするんだという妙な気負いを持っている。これに対してわれわれはどう闘っていくのかは、今後の大きな課題だと思います。
 60年代から計画された原子力関連施設の予定地は、だいたい80ヵ所以上にのぼっています。しかし実際に建設されたのは15地点、建設中は2地点にすぎません。ですからあとの60ヵ所以上は、住民が原子力関連施設を拒否したことになります。そして建設された地域でも、反対運動はまだ続いており、増設予定の地域でも、激しい反対運動が起こっています。さらに今年1月には、フランスからプルトニウムが運ばれてくることに対する闘いがありました。特にここ2年ぐらいは、日本がプルトニウム社会に突き進んでいくことを阻止する闘いが、非常に強くなっています。それはいま青森県の六ヶ所村に建設中の核燃料関連施設とそれに反対する運動と軌を一にしたものといえます。

終わりに
 これは海外の方にぜひ聞いていただきたいんですが、日本、特に現地においては、安全性やエネルギーの必要性といった論は、ほとんど通用しないということです。唯一推進側が力を持つことができるのが、お金なんです。ということは、お金をふりまきながら非常に強力に推進してくる側とわれわれが、どのように闘えるのか、これがわれわれのいまの闘いの現状だと思います。どうもありがとうございました。


西尾漠(日本)
 西尾といいます。残り時間がないというので、手短かにお話をします。



新規原発はすべてとめた
 いま菅井さんから日本の反原発運動の歴史が話されました。その結果として、現在では43基の原子炉が動き、合計出力で3460万キロワットにもなります。世界で第3位、アジアではもちろん最大の原子力国になってるわけで、原発建設が成功してきた、ある種お手本みたいな国になってるのだと思います。しかし、本当に日本の原子力開発がうまくいっているかというと、とてもそんなことはないと思います。
 たしかに43基もの原発がつくられているけれども、断念させたところもたくさんある。原発がどういうものであるのかまだわからないうちに、土地が買われ、漁業権を買われ、そういったところに最初の発電所がつくられた。そしてそこに次々と増設していくかたちで進んできたわけです。そうした最初のころの原発が運転に入ったのは60年代の終わりから70年代の初めですが、それ以降に新しく浮上した計画についていえば、一基も建設させていない。このことはやはり、きちんと強調しておく必要があると思います。

老朽化するなか、問題は次々と
 日本の原発建設は、進めている人たちが宣伝するようにうまくいっているわけでは決してないし、もちろん原発そのものも、決してうまくいってない。日本でも大きな事故がすでにいくつか起きています。それもなにかひとつ条件が違っていれば、直接住民に大きな被害を与えるような重大な事故です。現在、運転開始から20年以上たったものが5基、15年以上たったものが10基になっているので、これから老朽化の問題が深刻になってくると思います。しかも、原発の比重が大きくなってしまったために、何か問題が起きてもこれまでのようにすべての原発をとめて総点検をすることもできなくなっている。予防措置がとれないなかで、むしろ危険は大きくなっているといえます。
 さらに経済性の問題がある。原発というものが、電力会社の考えたような経済的なものではなかった。しかもこれから先、いわゆる後始末の問題が出てくるなかで、経済性の問題は深刻になっていかざるをえない。また、プルトニウムの問題を筆頭に、その他もろもろの問題すべてがこれからさき、本格的に出てくるのです。そうしたことを考えれば、電力会社としても原発推進なんてとてもいっていられない、というのがいまの実情だと思います。

原子炉メーカーの延命策・原発輸出
 推進側には、これからさきの原子力発電の計画が確かにあるわけですが、実際にはその計画が毎年毎年、先送りにされています。現実につくられるはずのない、ただ単にいまの政府の計画とつじつまをあわせるだけの表向きの計画が残っているだけです。つまり原子炉メーカーは国内では原子炉がつくれない。そこでインドネシアやタイや台湾などに輸出しようという計画が出てくるのです。
 原発輸出についても、ほんの数年前までは、たとえばメーカーの三菱重工の社長自身が、輸出という言葉を聞いただけで尻込みをしていると語っていました。それから何年もたったわけではないので、その間に日本の原発の実力があがったわけではない。しかしいま国内需要がなくなるなかで、現実に輸出を考えざるをえないところに、むしろメーカー自身が追いこまれているのが実情だと思います。そんな輸出を許してはいけない。日本の原発をとめることとともに、アジアに原発を増やさない、むしろアジアの原発をこれからなくしていくことに、日本の私たちとしても一緒に力を合わせていきたいと思っています。ありがとうございました。

  
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