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第一回 日本
東京 ノーニュークス・アジア会議

各国報告 インド



仏陀は微笑む
己が民の愚行に

インドの反核運動の現状



パドマナバン・V・T
インド、産業安全環境問題センター
Padomanabhan V.T.


司会(コラソン)
 次は自然放射線の非常に高いケララ州で、住民の健康と放射線の関係について調査されましたパドマナバンさんです。

パドマナバン(インド)
 8億4000万の人口の半数近くが貧困線以下の生活をしているインドは、おそらく世界史上初めて、非暴力の闘いによって強大な帝国主義国家からの独立をかちとった国でしょう。平和と非暴力主義の象徴、現代の救世主マハトマ・ガンジー師を生み、かつて仏陀を生んだ国です。ところがこうした伝統に反し、インドは第三世界で初めての本格的な核兵器開発国になってしまいました。インドにはウラン鉱山、精製工場、核燃料製造工場、核爆弾工場、重水製造工場、プルトニウム分離施設、爆弾組立工場、そして濃縮施設があり、さらにミサイルも保有しています。

一方的に進められた核開発の歴史
 インド国内には35の核兵器・核エネルギー関連施設があり、年間25キロの兵器級プルトニウム生産能力があります。原子力開発を進めるという決定は1947年の独立直後になされ、ネール元首相の個人的な友人で、産業界の巨人タータ氏の従兄弟のホミ・J・バーバ博士のもと、巨大な研究施設が設立されました。インドの原子力エネルギー法は米国のそれをコピーしたものですが、安全性への異議申し立て制度などは削られ、原子力省の予算に関しては議会も論議できません。いわば民主的な枠組みを超越して、これらの機関は存在しているのです。
 最初の研究炉サイラスはカナダ製、濃縮ウランを燃料とする最初の商業炉は米国の手で設計から施工まで行なわれたものです。その後、天然ウラン燃料で重水冷却のCANDU炉(カナダ型重水炉)がカナダから供給されるようになり、現在稼働中の原発8基も建設中のものも、すべてCANDU炉となっています。重水技術はノルウェーと西ドイツからも導入しました。
 政府、軍、産業界の指導者たちは、インドの原子力開発が平和的なものだといいつづけてきました。しかし1974年、サイラスから5キロのプルトニウムが分離できるやいなや、最初の核実験が行なわれたのです。その核実験は隣国パキスタンに近い砂漠の地下で行なわれました。これは隣国への示威行為であり、科学政策研究者で反核活動家のディレンドラ・シャルマ教授は、インド亜大陸における軍拡状況、特に隣国パキスタンが核保有にいたったことに、インドには特別大きな責任があると語っています。

明らかになりはじめた環境汚染
 インドの核関連施設の多くは、少数民族や小作農など貧しい人々の住む地域にあります。環境汚染を測定し、被曝した住民の健康への影響を調査する役割を持つ機関がないわけではありません。しかしそれは原子力委員会のもとに置かれ、報告義務を持つだけの存在なので、常に偏った報告しか出てきません。インドでは公衆に影響のおよぶ事故は起きたことがないとされています。
 核推進政策の犠牲者はいったい誰なのか。それは、その半数が食べ物や教育や住居など生存のための最低の要求すら満たされないでいる、8億の民衆です。インドとパキスタンの国境をめぐる争いに核の狂気が輪をかけ、本来、国民の健康や教育、低価格の住宅建設などにあてられるべき予算が、核開発のために投じられているのです。そのために多くの子どもたちが死んでいっているのです。
 もっと直接的に影響をこうむっているのは核施設で働く労働者です。35の主要核施設の推定常勤労働者数は約50万人ですが、さらにひどいことに、たとえば除染作業のように被曝しやすい仕事は、常勤労働者ではなく臨時工が行ないます。賃金や健康チェックの面で差別される臨時工には、被曝記録すら存在しません。使い捨てられる彼らの多くは、少数民族や教育のない若い失業者たちです。これが施設のフェンスの内側で起こっていることですが、フェンスの外側の8億の民衆、彼らの生活環境も危険な放射性廃棄物投棄によって汚染されています。たとえば中部インドのビハール州ジャドゥグダのウラン鉱山周辺で、ここは少数民族の住む地域でもあります。
 インド・レアアース(IRE)社は、モナザイトからトリウムと稀土類(レアアース)を抽出する工場で、トリウムは工場内に貯蔵され、稀土類は日本やヨーロッパ諸国に輸出されています。1983年におそらくインドの核開発史上初めて、非政府系グループによってIRE社従業員の健康調査が行なわれました。その結果、被曝労働者のガン発生率はそうでない労働者に比べ、統計的に見て高いことがわかりました。また被曝労働者の子どものいく人かに、遺伝的な障害が認められました。別の研究調査は、工場の廃棄物投棄に関するものです。この工場は川岸にあり、操業開始以来数千トンの放射性廃棄物が川に投棄されました。また約5000トンの水酸化トリウムが、川岸のとても安全とはいえない施設に保管されています。
 もうひとつの研究は放射性物質トリウムを含む鉱物、モナザイトの産出地域に住む人々の健康に関するものです。ケララ州の4つの村は、放射線レベルが通常の5倍から50倍という特異な場所で、WHO(世界保健機関)は、長期間の低レベル被曝の影響を知るため、これらの村の詳細な疫学的調査が必要であると勧告していました。ここでの平均的被曝線量は700ミリレムで、原発労働者の被曝線量とほぼ同じです。村に住む約4万人についての遺伝的障害の有無も調査され、ダウン症発生率が通常の3.5倍であることが明らかになりました。また、1万1000人の女性の妊娠例も分析中で、市川定夫教授とカナダのロザリー・バーテル博士が、この調査研究に協力してくださっています。
 稼働中のラジャスタン原発周辺住民の健康調査では、遺伝病や先天的身体異常の多いことがわかりました。高い自然放射線レベル地域のタミル・ナドゥでのガン発生についても、過去20年間に病院で治療を受けた患者のカルテをもとにして調査・分析されています。

抵抗運動のはじまり
 この国の支配権を英国からひきついだ政治・技術・軍事エリートは、技術近代化路線の一環として核開発を進めています。非暴力的で、草の根指向の開発モデルであるガンジー主義経済政策は放棄され、西側から借りてきたモデルが民衆に押しつけられました。マスコミ、学者たち、議会の野党勢力、そしてほとんどの民衆は、「科学技術こそが貧困と搾取からインドを解放する」と信じこまされ、核開発に対する異常なまでの投資を30年間も許してきました。
 しかし80年代に入って状況は変わりました。マスメディアでも核施設での深刻な事故が報道されるようになり、学者やジャーナリストは核推進勢力の過去にしてきたことや現在の政策に着目しはじめました。シャルマ教授、ジャーナリストのプラフル・ビドワイ氏、社会科学のコリエネ・クマール・ディスーザ教授、高等法院副執政のクリシュナ・イヤー氏といった人々が、インドにおける最初の反核活動家となり、彼らの報告や記事が中産階級や政治家たちを変えていきました。政府から独立した機関による良質の研究報告が数多く発表されましたし、放射能放出、大小の事故などの報告や告発は、マスコミによっても行なわれてきました。興味深いことに原子力推進勢力側は、これらの報告の内容について否定はせず、事故や放射能漏れなどについても回答そのものを拒否する方針をとっています。

動きはじめた各地の運動
 これらの事実が暴露された結果、多くの反対運動が生まれました。IRE社の問題ではケララ州全域で組織的なキャンペーンが行なわれています。調査研究の報告書や現地のビデオは、インド全土で学習のために使われ、さらに同じ問題を抱えたマレーシアでも役立っています。ケララ州および隣接したタミル・ナドゥには原発建設計画がありましたが、住民の反対運動により政府は断念しました。これはインドでは最初のことです。その後、カイガ、カクラパル、ナロラの3地域でも計画が出ていますが、どこでも住民の強固な反対運動に直面しています。また中部インドのウラン採掘地帯では、少数民族の運動と結びついた反対運動が盛りあがっています。
 このように各地で反対運動が核推進勢力と火花を散らしていますが、全土の反核運動をまとめあげるにはいたっていません。しかし運動のなかからいくつかの大きな組織が生まれ、互いに連携しつつ闘いを進めています。デリーに本拠を置くCONSUP(Committee for a Sane Nuclear Policy)はインドで最も古い反核団体のひとつでディレンドラ・シャルマ教授を議長に、学者、ジャーナリスト、法律家などによって組織されています。アヌムクティ(Anumukthi=核からの自由)は、核物理学者スレンドラ・ガデカール博士と栄養学者ウマ・デサイ博士が設立した団体で、隔週刊誌を発行しています。同誌は全土にわたるネットワークの役割を担っており、環境保護や反核の運動家のほとんどがこれを読んでいます。カルカッタのSEE(Safe Energy and Environment)は、同名の新聞を発行しています。
 バンガローに本拠を置くCANE(Citizens for Alternative to Nuclear Energy)はカイガ原発反対のために設立された団体で、彼らの起こした訴訟で、最近インド最高裁は画期的な判断をくだしました。原発用地選定その他の手続きや調査報告書などいっさいの資料を告訴人に渡すようにという命令で、これまで国家機密の名のもとに退けられていたことからすると大きな勝利です。しかし建設は進行中で、完全な勝利ではありません。  JMM(Jharkhand Mukti Morcha)はほかの反核団体とは少し違い、中部インドの少数民族自治州の実現をめざして闘っている団体です。彼らの住むジャルカンドに現在インド唯一のウラン鉱山があり、より安全な採掘方法の要求が彼らの政治的な要求のひとつとなっています。私がやっているのがCRSCRV(Collective for Radiation Studies,Campaign and Rehabilitation of Victims)で、放射線量の高い地域での調査を計画しています。インドの核推進計画に関する報告書やビデオに興味をお持ちの方がいましたら、どうぞ私にもうしでてください。

仏陀は微笑んだか?
 インドの広さと核施設そのものの規模の大きさを考えたとき、現在の反対運動は極めて微々たるものといわざるをえません。非政府的な調査研究活動には、政府の資金援助はいっさい得られず、政府側の強力な宣伝の前には、マスメディアでさえ確固とした意志を持ちえない現状といえます。しかしこうした弱点にもかかわらず、この国の環境保護運動は核問題に関して一定の影響力を持つにいたりました。低識字率と反核運動開始の遅れを考えたとき、過去10年間の運動の成長は評価に値すると思います。
 1974年の核実験が成功したとき、実験担当者から首相に向けて暗号文が発信されました。その文句はこうです。「仏陀は微笑まれた」。よりによって最悪の兵器である核爆弾の実験成功を示すのに、仏陀の名前が使われたのです。いつかこの国の支配者たちに非暴力と自制の初歩を学ばせたとき、仏陀は再び微笑まれるでしょう。インドの民衆はそれを誓います。

  
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