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第一回 日本
東京 ノーニュークス・アジア会議

非核アジア太平洋会議の報告



アジア太平洋の反核運動が
初めて出会ったホンコン会議

jaya

ジャヤバラン・タンブヤッパ
マレーシア、医師


司会(河田)
 金先生の力強いご発言、ありがとうございました。次にマレーシアのジャヤバランさんに、このノーニュークス・アジアフォーラムの前段の会議とも位置づけられます「非核アジア太平洋会議」の報告をお願いいたします。

ジャヤバラン・タンブヤッパ(マレーシア)
 はじめに香港で開催された非核アジア太平洋会議(CONFAP)の報告を行なう機会を与えてくださった実行委員会のみなさまに感謝いたします。昨年の11月、非核アジア太平洋会議の参加者のひとりである高木仁三郎博士にお会いし、なぜ第2回目の会議が開催されないのかを話し合いました。そのおり日本で開催されるこの会議に参加できるかとたずねられ、私は喜んで参加すると答えました。
 さて、第1回非核アジア太平洋会議の参加者として、そして計画されていながらいまだ離陸していない第2回目のコーディネータとして、その会議の報告を求められていると私には思えますが、まずひとつ気づいたことがあります。それはこの場に並んでいる方々や聴衆のみなさまのなかに、非核アジア太平洋会議で見知った顔がないということであります。
 非核アジア太平洋会議(Conference for Nuclear Free Asia-Pacific)と名づけられたこの会議は、1988年6月8日から6月12日まで香港で開催されました。会議を組織したのは主として香港のNGOであり、なかでも香港環境保護協会(Hong Kong Conservancy Association)が重要な役割を担いました。12ヶ国が参加し、その内訳は、日本から2名、フィリピン、インドネシア、インドから各1名、マレーシアから2名、太平洋地域からはベラウ(パラオ)から1名、それに台湾と韓国から各1名、さらにフランスと英国とドイツがそれぞれの代表を派遣しました。もちろんホスト役の香港もです。ほかにも非公式の参加者が香港内外からいらっしゃいました。
 会議の大部分は、アジア太平洋地域での反核運動の状況に関する相互の情報と意見の交換に費やされましたが、それはまた互いの共通点や運動基盤を学び合うことでもあり、互いを勇気づけるものでもありました。会議のもうひとつの目的は、この地域で推進されている原子力エネルギー利用とその周辺のことがらについて、いかにして国際世論を形成し、促進するかという問題でした。
 会議は5日間続き、各国の参加者が自国の運動状況についての報告を行ないました。ある発言者はまた、直前に訪れたチェルノブイリ原発周辺地帯についても報告しました。たとえば著名なピーター・ワスリー博士(Dr. Peter Waslie)のような方々も、また労働者、社会学者、歴史学者も、それぞれにこのアジア太平洋地域の核状況について、そして軍拡の問題について同じように発言しました。私が持っていた各国の報告書は、今回のフォーラム実行委員会に提出しましたので、請求すれば誰でも手に入れられると思います。あるいは私に連絡くだされば、お渡しできます。なぜこのようなことをいうのかというと、その報告集は非常に興味深いものだからです。各国の発言者がそのなかで予言したことこそ、実際にその後に起きたことなのです。
 さて、最終日に採択されました決議とアピールのハイライトを、この場で紹介したいと思います。最初の決議は、フランスから日本へのプルトニウム輸送計画の中止でした。これは、すでに反対意見を無視して強行されてしまいました。ちょうどその会議が開催されているときに寄港した米空母エンタープライズに対しても、抗議声明が採択されました。ピーター・ワスリー博士にいわせると、エンタープライズの寄港は米国艦隊から会議参加者へ送られたあいさつだそうでありますが、参加者のあいだに強烈な抗議の声が沸き起こり、会議参加者も加わった大衆デモがアメリカ大使館の前でくり広げられることになりました。驚いたことにこのデモは大成功で、新聞にもとりあげられました。
 そして、平和へのアピールが次に続きます。まず朝鮮半島の平和のためのアピールが採択され、当時のインド首相ラジブ・ガンジー氏にはタイガ原発計画の中止を求めるアピールが送られました。西ドイツ政府に対しては、アジア太平洋地域を将来の核廃棄物の捨て場として検討することをやめ、この地域からのウランの輸入や、この地域への原子力技術の移転を停止することを求めるアピールが採択されました。
 そして最後に私たちは、米ソ超大国に対し、陸海空すべての軍における核軍縮、アジア太平洋地域にあるすべての核施設の閉鎖と解体、廃棄物を可能な限り安全な方法で扱うこと、そして核実験、核廃棄物投棄の完全中止、放射性物質の域内通過の禁止、この地域の人々の民族自決権への妨害をやめることを求める意見書を採択しました。
 会議の大詰めで今後の体制が討議、採択されましたので、それを紹介しましょう。まず、この継続する私たちのネットワークを、非核アジア太平洋会議(CONFAP)と名づけました。定期的に、可能ならば毎年、共同作業のために集まること。メンバーは最初の段階では個人単位とし、この最初の会議への参加者によって構成されるものとすること、が決まりました。微笑んでいる太陽のマークに各国の言葉で書かれた非核のスローガンが、太陽からの光線のように配されている、そのような図案がロゴとして選ばれました。
 さて、報告を終える前に、私に与えられた課題についてお話ししておきましょう。それは第2回非核アジア太平洋会議の開催であります。インド、または台湾で行なうという計画もありましたが、いづれも実現にはいたりませんでした。第1回から5年が過ぎましたが、それをより拡大していこうという議論が公開の場で行なわれたこともありませんでした。開催への道はなお遠しというところですが、今回の会議での議論がその突破口となるのではないでしょうか。ありがとうございました。


  
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