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第一回日本 海外参加者の感想
韓国

地域に根をおろした
反核運動を


金斉南 キム・ジェナム
(青い韓半島を取り戻す市民の会)


九州電力株主総会に反核の歓声を!
 6月29日は九州電力をはじめ9電力会社が一斉に株主総会を開いた。反原発運動をしてきた日本の反核運動家たちは、小株主として株主総会に堂々と参席し、巨大資本に向かって原発の危険性と非経済性を警告し続けてきている。現在、九州地方では4基の原発が稼動している。玄海の3号炉は試運転中(94年3月に稼働)で、建設中の4号炉は1997年に運転開始される予定だ。
 九州電力の原発総出力は289万8000キロワットで、1年間につくられて出てくるプルトニウムの量は720Kg程度。九州電力と契約している家庭が約580万世帯というから、1世帯当り0.1gのプルトニウムをつくっていることになる。結局、1世帯が1年間使用する電力量は、9000人分の致死量に該当するプルトニウムをつくりだす。
 このような内容の話を、まるで死の便りを伝えるかのように、体を小刻みにふるわせて胎児性水俣病患者の坂本しのぶ氏(女性・36歳)は、支えきれない体をひきずるようにして、か細くも粘り強いたんぽぽのような生命の声を、強く聞く者の胸に打ち込んだ。たとえどんな奇怪な核賛同の論理も、巨大資本の力も、この生命の尊厳の前では無力にならざるをえないとの確信を新たにしたのだった。
 九州大学のある教授が九州電力を相手にはじめた、株主総会を通じての反核運動は、10年以上を経て反核の実現をめざす市民運動の典型として根をおろしている。先覚地である九州地方では最近、他地方に比べ反核運動の求心力が落ちているという。その理由は、まるで恐竜のように肥大する資本側の力に対抗しての長期戦で疲れ、惰性に陥ったためと語られる。しかし火種を絶やさないかぎり、再び勢いよく燃えあがる反核の熱意は冷めていないと信じている。

生活のなかに根ざした反核運動を
 今回行なわれたアジア民衆の連帯・反核のためのアジアフォーラムは、まさに日本政府の反平和的な陰謀を暴露して、それを阻止するうえで大きな意義があった。日本全域で1500余人が賛同人として参加し、各地域に連結されるフォーラムを通じてアジア8カ国の反核運動の歴史と経験を分かち合い、「核はいらない!アジアの空に。核はいらない!アジアの大地に」という反核の連帯を準備する契機をつくったといえる。
 日本の地方自治の歴史はわが国より数十年進んでいるという事実を見て、自治に根拠を置いた各地域の反核運動がうらやましいと思った。たとえ、「手続きと形式を重視する民主主義」といっても、住民が主人公としての権利と義務を行使できる制度的装置が準備されているというのは重要だ。
 九州電力は95年から、関西電力に原発1基分に該当する100万kWの電力を売る計画をたて、新たな原発の立地候補地を選定している。日本最南端に位置した串間地域が、まさしくその原発予定地だ。昨年11月の市長選挙で原発推進候補が当選して緊張が高まったが、当選した市長が掲げた公約が、原発誘致決定は住民投票の結果を通じて行なうとのことで、現在、農協、漁協、商工会議所などがそれぞれの総会を通じて賛否を問うている最中だ。この地域で農業を営むある彫刻家によれば、多数の住民が原発誘致に反対しているという。
 海を見おろすと、「あー! 美しい」とため息がでる立地予定地は、わが国の安眠島を連想させる。韓電の独占的経営と密室行政のなかでがむしゃらに進められてきたわが国の原発の歴史をふり返り、住民のなかにしっかり根をおろした反核運動こそ、最も大きな力だということを確信した。

わが国反核運動の進む方向は
 3日間におよぶ地域での行事がおもに集会中心に進められ、現場体験をするには時間不足で、通訳の難しさなどもあり、豊かな交流ができなかったことが惜しまれる。国と民族の違いを離れ、反核を行なう人同士として感じる無言の交流はたいへん貴重なものだった。自らの体で体現している質素で素朴な生活と、反核への思いを生活のなかに拡散させ、溶解させようとする誠実な姿勢を心から学ぼうと思う。わが国反核運動のより成熟した発展のため、地域住民運動などの自治組織を強化し、市民運動の横のつながりを広げていかなければならない。一律的で閉鎖的な運動の方式から、人々の知恵と力から出てくる創造的な運動に、ひとりの反核活動家が10〜100人の大衆をリードできる運動に進まなければならない。


田在鎮 チョン・ジェジン
(安眠島核廃棄場反対闘争委員会)


朝鮮人の霊魂がさまようむつ

 われわれを乗せた車は六ケ所村の核廃棄物処分場からいちばん近い二股村を過ぎ、陸奥に向かって走った。案内役を務めてくれる道祖土(さいど)氏宅でのビデオを通じて、朝鮮人の哀感を少しは知ることになった私としては、沸き上がる感情を抑えることが難しく、その思いを通訳者に語っていた。太平洋沿岸地方とは違い、陸奥湾沿岸は松の枝がすべて東側を向いているほど北西風が強く、風がひどい酷寒地域ということを実感させる。

朝鮮人強制労働の現場を訪れて
 下北駅前でしばらく休憩をとる。下北駅は、かつて独立闘志たちが出入りしたときのままのひなびた昔の姿だった。遠く釜臥山の頂上には防衛庁の通信レーダーが、でんと構えている。1939年から始まった鉄道工事に投入された朝鮮人たちの強制労働現場に行くという錯雑とした思い。下北地域文化研究所所長であり、浮島丸事件を証言する本を発刊した斉藤氏(63歳)に会った。彼は私たちを喜んで迎えながら、日本人の過去の蛮行を忌憚なく語り、すぐに強制労働現場に私たちを案内した。関根浜部落を過ぎ10分あまり行くと、本当に当時の建設現場をそのまま見ることができた。斉藤氏はまず初めに「いまあなた方が韓国人としてこの事件に対する証人にならなければならない」と、日本人でありながらむしろその役目を頼むのであった。私は言葉がなかった。こみあげる思いを押えながら、彼の言葉を聞き漏らすまいと神経を集中した。
 50キロにわたる鉄道工事は、第二次大戦当時の日本軍が北海道に武器を輸送するために、1939年から43年まで、山間僻地にもかかわらず朝鮮人を強制連行して強行されたが、戦争末期に力尽き、資材と食料不足で線路も敷き終えないまま中断した。斉藤氏の証言を土台に、朝鮮人の強制連行の過程と強制労働現場の実情を整理してみる。下北半島には最低でも4000余名の朝鮮人が強制的に連れてこられ、石炭鉱山、滑走路工事、坑道作業、橋梁工事、港湾での荷下ろし作業など、日本軍国主義のために犬のような扱いを受けながら労役に耐えねばならなかった。そのなかで最も過酷な労働は、トンネル工事の際にダイナマイトで岩壁を爆破する仕事で、これにはすべての朝鮮人がかり出された。
 当時、日本軍は朝鮮の慶尚南北道を拠点に、通行中の青年たちをつかまえて手当り次第にトラックに乗せたのち、船に乗せ下北半島に連れてきた。もちろん青年たちの家族はまったく何も知らない状態で、あらゆる甘言を弄してだましていたという話がいまも伝えられている。たとえば、6カ月だけ働けばたくさん金儲けができるとか、金ができれば送り返してやるなどである。本来は6カ月契約で連れてきたとのこと。 山中に坑道をつくり、渓谷では坑道と坑道をつなぐ陸橋をつくったが、ここ大畑から大間までの工事ではおよそ300余人の朝鮮人が働いたとの数多くの証言が得られていると聞かされた。
陸橋をつくり線路を敷く前に、石を敷く作業をするが、石を敷く部分は深く一度落ちれば出てこられないほどだった。重さに耐えられずに落ちた朝鮮人をそのまま埋めてしまうのを見た日本人労働者の女性や、ある朝鮮人をひきあげる場面を見たという日本人女性が当時のことをよくおぼえていると語った。
 当時の朝鮮人強制労働者の惨状については日本人女性たちがよく知っている。なぜなら、男たちはすべて軍隊に入隊したために、現地にいたのはほとんど女性だったためだ。コンクリートを混ぜる作業をするときも、生きたまま埋められる危険性があった。ダイナマイト爆破時の事故で死んだ人も多かった。
 何人もの朝鮮人が船で脱出を試みたが、憲兵と警察に捕まり、棍棒で殴られ逆さに吊り下げられる拷問を受けた。捕まった者のうちの80%以上が日本警察の拷問によって死んだという。もっと悲惨なのは、生きている朝鮮人の体に蝿が真っ黒にたかり、ウジがいっぱいわいたというのだ。当時、朝鮮人が死亡した場合には、埋葬することはほとんどなかった。倒れれば死んだまま放置しておき、そのまま埋めるようにした。ある鉱山の坑道のゴミのなかから多くの遺骨が発見されたが、この遺骨も強制連行者たちの遺骨と考えられる。これらの事例を調査する過程で、日本政府の妨害があったとする斉藤氏の表情は寂しげに見えた。

坑道に残る強制連行者のさけび
 トンネルの全体規模や名前はわからなかったが、おおかた長さが700〜800メートル程度だろう。ここ大間近辺でも6個ほどの遺骨が発見された。その数字はもっと増えるものと考えられている。ところで、ほとんどの坑道は、日本政府が入口を塞いだために出入りできない。ただ下北半島の最北端に位置し、工事期間の最後の時期まで試し堀りしたとみられる坑道だけは唯一出入りできる。ここの坑道は住民が地域名をとってつけた名前で、焼山トンネルと呼ばれている。夏にはうっそうとした森に隠され、外部からはなかを見るのは不可能で、冬には落葉するのでやっとわかるほどだ。
 坑道の調査に対する事前準備がなく、正確な測定ができなかったのが残念だが、肉眼で見ると幅はだいたい6メートル、高さは8〜10メートルほど。入口からなかには暗くて入れなかったが、斉藤氏によれば3〜4年前には中間あたりまで入ると、全部を塞ぎきれなかったのであろう小さな穴から、小柄な人ならば何とか奥へ入れたという。そして、内部の坑道の壁を調べると、日本語でない文字で落書きがあり、その文字は朝鮮人が書いたのでないかと思うと語った。そこでは、茶碗も9個発見された。でも日本政府はその穴までも塞いでしまい、調査活動を妨害しているという。彼はまた、内部に人の遺骨が残っている可能性もあるという。調査方法はないが、それでもエックス線ででも撮ってみたいと斉藤氏は語った。
 当時、連行された朝鮮人は10代後半から20代後半までの青年たちで、本来は6カ月という契約なのが、2〜3年も強制労働に苦しんだ。祖国に帰してくれと要求したが、そのまま黙殺され、朝鮮人だということで殴打された。帰ろうとすれば殴打し、家族を呼ぼうとすると戦争中に何で女と暮らすのかとまた殴打された。
 私たちは坑道壁に書かれた隠された文字をみつけなければならない。残り6個の洞窟のなかに、より多くの証拠品が残っているのは確実だという。朝鮮人の強制連行に関する諸問題を1日も早く解決するため、日帝の蛮行の証拠を確保しなければならない。「朝鮮人は勤勉によく働くというイメージがいまも残っている」という斉藤氏は「韓国人として証人になるべきだ」との頼みをくり返しながら洞窟から出た。

疑惑の残る浮島丸事件
 もうひとつの悲惨な歴史は、浮島丸号が出港した大湊港にまつわる話だ。1945年8月22日出発した日本海軍艦艇は、4000余人と推定される下北半島一帯の朝鮮人を朝鮮へ返すという作戦を遂行したのだった。結局浮島丸は、途中で疑いの残る爆破によって多くの朝鮮人を、結果的に水葬することになった。8月15日、日本が降伏した次の日から、祖国に帰れるという噂を聞いた朝鮮人は、下北から、遠く北海道や三沢地方からもいち早く大湊港に到着した。その数を正確に残した記録はない。ある人は2000ないし3000程度といい、また5000人にはなるだろうといい、7000という記録もある。
 多くの朝鮮人は故郷に戻るために、埠頭で幾晩も待った。そして、ついに日本海軍は、港内から朝鮮人を船に移動させた。もちろん海軍の高級将校たちも乗船した。大湊を出発した船は釜山か、ほかの朝鮮の港に直行するものと、だれもがそのように考えたが、予想もしなかった舞鶴に停泊した。ここで日本海軍の高級将校たちは下船し、その後、船を動かせるほどの兵士25人を残して出航。しばらく後、浮島丸は爆破されてしまった。
 これが浮島丸爆破事件だが、当時の目撃者たちはいまになってやっと口を開き始めた。さる92年2月にある日本海軍兵士の遺族が口を開いたのを契機に、この事件が本格的に表面化され始めた。道祖土氏はこの事件についていくつかの疑惑と問題点をあげてくれた。当時、日本政府は、9月1日に朝鮮人を退却させる計画をたてたが、予定を早めて慌てて退却させる理由がどこにあったのだろうか。
 当時、マッカーサーは、8月24日午後以降は島を出航してはならないと指示を下した。この点からみると、日本海軍が早期出航を試みたものと推測される。しかし、48年が過ぎたいまも乗船者名簿が発見されておらず、日本海軍は死亡認定書を提出したにもかかわらず、やはり死亡者名簿を出していない。そのため、正確な朝鮮人の死亡者数は確認できないが、3700余人が最も近い近似値になるようだ。そして、なぜ舞鶴にたち寄ったのかも、多くの疑問を残している。
 斉藤氏は高等学校在職中、政治経済学を教えた。当時、学生に浮島丸問題を教えるなと、学校側の圧力があったが、彼はこれに関連した本をひとつづつ購入して読んだ後、この事件に対する真相を明かす調査を始めた。彼は浮島丸号に関する証言集を出版したが、これからも続けて解明していくと語った。

  
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