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第一回日本 海外参加者の感想
台湾

日本の原発現地を訪ねて


廖彬良 リャオ・ビンリャン
(台湾環境保護連盟)


 今回のアジアフォーラムを通じて、私は「アジア核被害共同体」の必要性を感じました。世界の反核人口がどんどん増加しているなかで、核のない世界をめざす人々の思いは深まり、反核の国際的な活動は少なからぬ反響をまきおこしています。来年のアジアフォーラムが台湾で開催されるなら、原発推進政策をとる台湾当局にとっては非常な圧力となり、政策を変えることさえも決して不可能ではないことでしょう。
  注)94年のアジアフォーラムは韓国で開催されることになった。



楊従順 ヤン・シュウチュン
(台湾環境保護連盟)


 6月30日私たちは小村教授の案内で南島町を訪ねました。ここは紀伊半島の東部にあり、本当に風光明媚なところです。日本政府は30年も前からここに原発を建設しようと計画していますが、住民の強い反対の前に、いまにいたるも実現していません。町中に反核の看板が立ち並び、家々のほとんどにポスターが貼られていました。その日の夜の討論会ではスライドが上映され、30年の反核の活動、様々な闘いが紹介されました。最近議会で、原発建設には住民投票での賛成多数を必要とする議案が可決されたことも報告され、彼らの闘い続ける姿勢、心意気に感動しました。ここは過疎地の漁村で、人口の流出も少なくないなかで、闘いを堅持している彼らの精神力には本当に頭の下がる思いでした。最近の反核運動のなかでは若い世代も積極的に参加してきているとのこと。ここのみならず紀伊半島にいまだひとつも原発が建設されていないこともうなずけます。
 新宮の座談会にかけつけてきた近くの都市、那智勝浦の住民のなかには、70歳に近い年齢の数名の年配者がおられました。反核30年を闘っておられる紀伊半島の住民の歴史は、台湾の反核運動にとって非常に参考となるものといえます。



李秀容 リー・ショウロウ
(台湾環境保護連盟)

 福島原発の事故について聞きながら、私の心は台湾原発の歴史から離れることができませんでした。日本では被害を受けた人々は国の補償のもと、東京や大阪の病院で治療を受けることができます。しかし、台湾では公害紛争の処理について何ら決まった形式もなく、核の被害を受けた人々がどんなに苦痛に満ちた日々を送らねばならないか、想像するに余りあります。
 女川原発の現地で唯一の反核議員阿部氏は、漁師だったときに原発のもたらす生態系への破壊のすさまじさを知り、以来原発を監視し続けて30年にもなります。そのため20人の議員のなかで最も苦しい生活を送っています(賄賂を受けませんから)が、彼の心意気は漁民たちの尊敬の的で、私も彼をすばらしいと思いました。早朝の女川海岸に行けば、漁船が行きかいかもめが飛びかうなか、漁民たちとあいさつをかわし、漁獲量などについて話す阿部氏を見ることができるでしょう。最近、女川にまた原発ができると聞き、気が重くなりました。美しい女川海岸と不似合いな原発が同じ場所にあることを想い起こすたび心が痛みます。台湾の金山海岸も、もともとは美しい海岸でした。どうしていまは泳ぐこともできないのでしょうか?
 日本の原発と付近の住民を訪ね、私はどの政権下でも被害に苦しむ無垢の民がいるということを発見しました。台湾では蘭嶼、日本では青森県民がそうです。政府は彼らから資源を奪い去っておきながら、原因についていっさい説明しません。台湾の第1、第2、第3原発付近の住民は、原発の悪夢のもとで生活を続けています。そして特にひどい例が民生別荘の住民たちで、生命の危険と隣り合わせで9年も居住していたのに、政府はまったく知らんふりなのです。日本でもこの件が新聞報道され、どうして台北市でこんなことが起こるのかと話題を呼んだというのにです。為政者はここまで腐敗しうるのです。私は自分が台湾で生まれたことを思うと、本当にため息をつかずにはおれません。



林碧尭 リン・ピャオ
(台湾環境保護連盟)


 核開発技術をめぐっては弱肉強食の方式が世界的に定着しており、国家の民主化の程度とはあまり関係がないように見受けられます。核開発は民主化の進んでいない国では、あからさまな独裁的手法で押し進められますし、日本の金権政治下では文明国面をして推進されています。しかし、核施設のある現地の住民の、反対の悲痛な叫び、苦しみは世界各地に共通しているのです。だからこそアジア各国の反核を闘う人々は一同に会しました。国の状況、言語は異なりますが、それぞれの思い、置かれている状態は変わりません。日本は経済大国で、一方のインドネシア、マレーシア、フィリピンの経済状態は良くありませんが、反核の勢力はともに少数です。核開発の技術は、政治的経済的手段を通じて、その強者の面と掠奪の力をあらわにします。日本でも例外ではありません。
 開発が遅れているといわれる青森県は、低レベル核廃棄物貯蔵施設建設に格好の土地でした。その建設の過程は語り草となっており、蘭嶼島の貯蔵所をめぐる物語に匹敵するものです。1984年以前に財団は六ヶ所村の土地を買い占めましたが、住民は工場がたつとしか知らされていませんでした。1984年7月になって初めて電気事業連合会が表に顔を出し、申請書を提出。翌年3月、日本原燃産業が基本協定書を正式にとりつけ、3年後にやっと核廃棄物貯蔵所建設が明らかにされたのです。住民たちが怒りに燃えてたちあがったことは想像にかたくありませんが、財団はすでに法律上の保証を得ており、91年に力ずくで運動を弾圧してからは、懐柔策に転じました。いまでは、現地の旅館の壁にも原燃のきれいなカレンダーがかけられている有様です。こうして反核の勢力はどんどん後退させられていきました。このような物語と、蘭嶼の貯蔵所建設の闘いの経過とどこが違うのでしょうか! 日本原燃はいまや完全な核燃企業をめざして邁進しています。

日本が核技術を発展させる条件と野心
 「科学技術を掌握し、経済の根を張り、世界に冠となす」。これが20世紀の日本の姿といっていいと思います。私は北海道から仙台を経て東京に向かう列車のなかで、この日本の発展の軌跡をはっきり感じることができました。20世紀という石油化学燃料の時代に、日本は経済大国にのしあがりました。そして、ソ連が解体し、核武装冷戦体制が終結すると、欧米の核開発は低調期を迎えることになりました。「死を恐れる」欧米国家は役にもたたない核弾頭を前に苦慮することしきりで、第三世界に向け「原子力平和利用」を強力に推進するのもはかばかしくない状況下、日本人は勇敢にもフランスからプルトニウムを運び出したのです。今年4月、核燃料再処理工場建設が、青森県六ヶ所村で着工されました。日本はこう豪語しているそうです。「独自の核燃料サイクルをうちたて、高速増殖炉という夢のエネルギーに向け邁進している」と。このような大言壮語も、原燃のPRセンターから原燃工場の全貌を眺めたなら、だれも否認できないことでしょう! 日本人はまさに核技術大国に向けてつき進んでおり、アジア各国(中国も含む)の原発は日本の核技術輸出の第一歩にほかなりません。
 昨年パリで世界反核会議が行なわれ、日本のプルトニウム輸送が攻撃の的となりました。しかし台湾では関心がうすく、日本の反核運動を闘う人々を失望させたことと思います。今年の4月青森の反核団体ははじめて国際的支援を受けたのですが、台湾の反応はやはり相当弱いものでした。当時は全力で第4原発反対にとりくんでいるときでもあり、余裕がなかったことをお許し願いたいと思います。
 日本が野心をもって核技術を発展させようとしていることは、G7での外相の核拡散防止条約に対する基本的立場の表明からも見てとることができます。アジアでの核開発の蔓延、世界の核被害のさらなる悪化、これは人類が核技術文明を享受するとき、どうしても払わねばならない代価なのでしょうか! このような情勢下、台湾はどんな役割を演じるのでしょうか?
 何度も乗った日本の列車のなかから、窓外の建築物を仔細に眺めていると、日本の直線は実にまっすぐだということに気づかされました。少しのゆがみもない。10数キロも続く核廃棄物処理場の周囲の「死の塀」さえも不思議なほどにまっすぐなのです。台湾の建築物はといえば、直線もまっすぐではないという技術程度です。台湾の原子力技術の水準はどうでしょうか? 現在の原子力政策から見て、台湾が再び日本の科学技術の植民地となりはててしまうのは時間の問題です。われわれはこのことを真剣に憂えなくてよいのでしょうか?

“所変われば品変わる”これこそ科学技術の災いの源である
 虎を描いて犬に似る(高望みをしてかえって悪い結果となる)というのが、往々にして第三世界国家の科学技術がもたらす災いの主要原因といえるでしょう。青森の六ヶ所村と蘭嶼の核貯蔵所には同じような事情も多いけれども、台湾で青森に似た地理条件のところを探そうとすればまったく不可能なのです。貯蔵所と主要道路が少なくとも1キロ以上離れていなくてはならない、という安全基準に照らすなら貯蔵所はすぐさま蘭嶼から撤退せねばなりません。第1原発のタービンの問題は氷山の一角にすぎません。政府職員が日本の科学技術をひき合いに出しても、いったい誰が台湾の原発の安全性を保証できるでしょうか。ましてや日本の原発も現地住民の抗議を受け続けているのです。日本という原子力模範国があるから台湾も大丈夫だなどとは現実離れしているのみならず、恐ろしいかぎりの発想です。所変われば品変わる式の核技術開発はもうごめんです。

  
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