Asia forum wide logo

Fコース
徳島、香川、愛媛


歴史といまを実感
徳島

本田 耕一
(核について考える会)



 台湾から国会議員秘書の邱創進(チョウ・チュンシン)さんと新聞記者の胡意文(フ・フェイウェン)さんが徳島を訪れた。6月30日は徳島市内、7月1日は巨大石炭火力発電所建設の反対運動のある阿南市内で、いずれも少人数ながら意義深い交流会を持つことができた。
 台湾には、約2000年前から住んでいる先住民、400年ほど前に大陸より移住を始めた台湾人、1945年に中国共産党よりのがれてきた大陸人が住んでいること、公用語は中国の北京語だが、日常会話の多くは台湾語であること、核廃棄物処理場が原住民の住む島に内緒でつくられようとしていることなどなど、私たちにとっては知らないことばかりだった。
 阿南市内での交流会に参加した主婦が、以前台湾に住んでいて戦後引き揚げたのだが、子ども心にラジオから流れる時報の台湾語を覚えていたので口ずさんだ。残念ながら正確には通じなかったが、かつて日本が台湾を植民地にしていたことを私たちに思い出させることになった。いまは対等に脱原発社会をめざす同志であることを少し喜ばしく感じる。
 台湾では、原発建設凍結を解除するかどうかの激論が国会でされていて、胡意文さんがFAXで送った記事が、新聞の第一面を飾ったことも報告された。アジアがリアルタイムで動いていて、脱原発運動にもアジアレベルでのネットワークが必要であることを痛感した。
 また、北京政府に気をつけながらも通訳を引き受けてくれたふたりの中国人留学生のおかげで、意志の疎通ができたことには感謝の気持ちでいっぱいである。



韓国・台湾が
身近になった四国路紀行
香川・愛媛

奥村 悦夫


交流会と株主総会
 6月28日夜、出力調整実験反対高松行動で多くの人たちが寝泊まりした福善寺で、韓国と台湾の方を囲んで交流会。二次会では、翌日の四国電力株主総会の最終打合せのために、四国4県から駆けつけた人たちとも合流。韓国語、中国語、英語、日本語が飛び交い、漢字での筆談もまじえて思い思いの個人交流が、酒と夜の深まりとともに深化していきました。
 29日。韓国の朴賢緒さんと高蔽(コチャン)郡反核闘争委員会の魯淵業(ノ・ヨンオップ)さんは株主総会に出席し、帰ってきたプルトニウムの核兵器転用への危惧を訴えました。ここでは一方的な議事進行など株主総会の異常な雰囲気と、四国の株主運動のようすを肌で感じてもらえたと思います。午後は愛媛の丹原の「ちろりん農園」に移動。ライフスタイルとして脱原発などを実践している西川さん宅でその暮らしを見てもらい、囲炉裏を囲んで雨音を感じながら交流会。
 30日。松山に移動し、専念寺で昼食をはさみ女性中心の交流会。夜は、観音寺で男性を中心にした交流会。韓国現代史の教授であり、日本の植民地時代を身をもって体験されている朴さんのお話に、改めて私たち日本人の加害性を痛感させられました。

この場かぎりでない情報交換を
 7月1日。伊方を訪れ、PR館を見学。建設中の3号炉を見おろせるところまで行き、朴さんの音頭で「原発はいらない! 原発止めろ!」とシュプレヒコール。それから、20年あまり闘ってこられた伊方原発反対八西連絡会議の代表の広野さん宅を訪問し、これまでの闘いについて話していただきました。夜は八幡浜の勤労会館で交流会。魯さんの住むコチャンの霊光原発から吐き出される放射能の、生々しい被害の実態と、現地の人たちの果敢な闘いの説明を聞き、同じ現地に住む者どうしの情報交換が熱心に行なわれ、この場かぎりでない交流が始まる予感を感じました。
 2日、今治へ。ここで再び、徳島コースの台湾の人たちと合流し、交流会。韓国と台湾の方々からは、まったく異なる表現のエネルギーを私は感じました。それぞれの固有の民族性でしょうか。四国最後の晩餐会は、夜を徹しての酒盛りと歌や踊りを予定していましたが、名古屋の会議に出席するためにこれを変更し、慌ただしい交流会となってしまいました。しかし、魯さんの最後のあいさつで「日本の植民地時代、私は小さな子どもだったので日本語を話すことはできません。また、これまで日本語が話せないことを残念に思ったこともありませんでした。しかし、いま、日本語が話せないことを非常に残念に思います」。アアー良かった。確かな手応えを私は感じました。

  
<戻る> <先頭へ>