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Eコース
津山、岡山、広島


ケララ州に
測定器を送りたい
津山

石尾 禎佑
(核に反対する津山市民会議)



 津山でのフォーラムは、津山圏域雇用労働センターで開催され、市民70人が参加しました。海外ゲストであるパドマナバンさんから、インド・ケララ州「放射能海岸」のモナザイト鉱石による放射能汚染の報告があり、ドラム缶162万本もの人形峠のウラン残土投棄事件、テイカ岡山工場によるドラム缶700万本の放射性チタン廃棄物投棄問題などを県内に抱える私たちにとって、国際連帯の運動としても、インドへのシンチレーション・サーベイメータなど放射線測定器を送る運動の開始の必要性を強く感じました。台湾の呉明季(ウ・ミンチ)さん、韓国の南相旻(ナム・サンミン)さんの報告では、西日本に非常に近い両国の原発推進政策に参加者の関心が集まりました。
 集会後はホームスティをして交流を行ない、翌30日は動燃人形峠のPR館、ウラン残土投棄場を視察しました。



顔の見える交流ができた
岡山

笹野 佳子
(ブキメラからの風)


 岡山では、原発問題にとりくむ、岡山草の根市民センター、原発なしで暮らしたいネットワーク岡山、そして、マレーシアからブキメラ村で医療活動を行なっているジャヤバラン医師が来られるということでブキメラからの風(準)も加わり、アジアフォーラムの受け入れをしました。
 受け入れは決めたものの準備はなかなか進まず、宣伝がいきわたってなかったのと、6月30日当日は朝から降り続く雨のせいか、参加者の出足は鈍いものでした。それでも約30名の人が集まって、熱心に海外からのゲストの報告に聞き入りました。東京での集会にスタッフが1名参加してくれたおかげで、台湾語の通訳が必要だとわかり、こちらで急きょ留学生に通訳をお願いしたので、台湾からの呉明季さんは、台湾語で発表できてホッとしたと同時に、何日かぶりに母国語で話ができてうれしい、とあとで話してくれました。
 集会は夕方6時30分から始まり、韓国、台湾、マレーシア、インドからのゲストによって、スライドやOHPを使いながら各国の現状報告がされました。韓国の南相旻さんからは、日本のプルトニウム政策が軍事大国化につながることを懸念する発表もありました。私たちは、同じ思いを持つアジアの国の人々と情報を交換し、反対運動を盛りあげていかなければと強く感じました。
 会場の都合で質疑応答の時間をとることができず残念でしたが、集会のあとでは場所を変え、心づくしの手料理で食事をとりながら、質問をしたり、彼らの国を旅したときの印象などをなごやかに語り合いました。ゲストたちも会場でのきびしい表情がおだやかになり、くつろいでいたようです。反核・反原発を掲げ同じ活動をするアジアの人たちと顔の見える交流ができ、とても有意義な時間を過ごすことができました。





忘れられない人びと
広島

大庭 里美
(プルトニウム・アクション広島)


たくさんの仲間たちと
 7月1日、広島駅で、東京の全体集会で会ったなつかしい韓国の南相旻くん、台湾の呉明季さん、インドのパドマナバンさん、マレーシアのジャヤバランさんを迎えた。大阪から、韓国語の通訳で来てくださったソン・マヘンさんは一見してとても優しくて頼りになりそうな人でうれしかった。上下町の福崎さんは、三菱化成の株主総会に出て、ジャヤバランさんとその足で岡山からみんなと合流していた。やっちゃんと、さゆりさんは遠くから早くやって来て、一緒に迎えてくれた。中国生まれで中国育ちの裕子さんが、台湾の呉明秀さんの通訳を引き受けてくださって、女同士楽しく話していた。
 平和公園で資料館や「原爆の子の像」を見たあと、公園の外にある韓国人朝鮮人被爆者の慰霊碑を訪れたときは、みんな言葉がなかった。南くんは、泣いていた。私たちはどうしたら、手をとり合えるようになるのだろう。
 パドマナバンさんの英語がわからなくて立ち往生し、ジャヤバランさんに「通訳」してもらったこと、急きょ通訳をお願いした山田さんに助けられたこと、みんな忘れられない。(なぜか、交流会のときは、ほとんど理解できたのに)牛田教会の荒川先生(アジアに学ぶ会)のところでつくってもらったマレーシア風カレーを、みんなでおいしいといって食べて、たりなくなるくらいだった。でも、私はなにものどを通らないくらい緊張していた。

集会と交流会
 実行委員全員よく動き、集会では(参加者約100人)パドマナバンさんの通訳で私がつかえた以外は予定どおり運んだ。
 燃えあがるアジア各地での反核反原発運動の報告は、広島にとっても大きな刺激である。また、日系企業による放射能汚染、日本のプルトニウム計画に対する批判もしっかりと受けとめていかねばならないと感じた。4人の話をもっとよく聞きたかったという感想は多かった。パンチのきいた呉明季さんの話、「りりしい」という日本では死語になった形容詞がぴったりあてはまる、南相旻くん。こういう若者に出会っただけでもアジアフォーラムをやってよかったと思うのである。
 東京集会のとき、南くんに「広島で何を話したらいいか」と聞かれたので、「NPTについてストレートに話してちょうだい」と頼んでおいたら、彼は短いスピーチのなかで、見事にNPTの不平等性と日本のプルトニウム計画の危険性を批判した。だらだら話す癖のある人は彼を見習ってほしい。
 集会の後、楽しい交流会。若い人を中心に、20名くらいが参加。もう頭のなかはからっぽ。とにかく、いろんな国のいろんな人がにこやかに語り合ったり歌ったりしている。それだけでいうことはなかった。桑本さんが食べ物をとってくれて、すごくうれしかったけれど、どうしても食べられなかった。ごめんね、桑本さん。



チャーリーのこと
 ただひとりの白人の参加者のチャーリーのことを書きたい。同僚のチャーリーは、このアジアフォーラムのために私のしわ寄せを受けていたにもかかわらず、通訳の手助けもかねて参加してくれたアメリカ人である。仕事の契約がもうすぐ切れてアメリカへ帰る直前だった。なごやかな交流会の最後に、彼は「話したいことがあるから、通訳してくれ」といって立ちあがった。そして、こういうことをいった。
 「僕は、ここにいる唯一の欧米人として、たいへん心苦しく思う。いまアメリカがやっていること、イラクに対してやったようなことを考えるととても心苦しい。しかし、アメリカのなかにも戦争に反対する人々がいることをみなさんにわかってほしい。ぼくは暴力や戦争を憎む。また、それが、ぼくの母が望んでいたことでもあるのです」。
 予期しないチャーリーの短いスピーチはみんなの心を打った。彼の母親は、この93年1月にまったく突然に世を去ったのだ。彼にとってはまだその事実を平静に受けとめることができないくらい最近のことである。その母親は、アメリカで銃所持を規制するためのキャンペーンをされていたのだった。
 3年前、大学をでたばかりで、日本に教師としてやってきたチャーリーと初めて会って打ち合わせをした日、原爆投下の是非をめぐって口論し、湾岸戦争が始まると毎日顔を合わせれば議論になった。その彼が、日本を去るとき「アジアフォーラムはぼくの日本の生活のなかでハイライトだった」と言ってくれた。
 忘れられない数々の人々。みんなの思い、小さな行動の積み重ねが集まって、こうした心の触れ合いが生まれたことをなによりもうれしいと思う。

  
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