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Cコース
静岡、芦浜、和歌山


静岡
地方どうしの交流こそが

松谷 清
(静岡市市議会議員)



 6月29日、静岡において反核アジアフォーラム訪日団のなかの3名を迎えての交流会が行なわれました。受け入れ準備は、小村・吉本・松谷の3名で、参加者は30名くらい。集会の前に浜岡原発を見学。ただ当日は雨が降っており、行動はややたいへんそうでした。韓国の金源植さん、フィリピンのコラソン・ファブロスさん、台湾の楊従順さんから、それぞれ自国での闘いについて報告があり、質疑応答が行なわれました。ちょうどその日、静岡市議会で、東名高速道路でのプルトニウム輸送に関しての質問もあり、その報告もなされました。3名の方々の話と参加者のメンバーとの深い交流は、時間の制限のなかで十分にはなしえませんでしたが、アジアの反核運動と静岡の人々との出会いができたという点では、成果があったのではないでしょうか。
 集会後のアルコール入り交流会は大いに盛りあがりました。みんな片言の英語で、一生懸命の相互対話で親密さを増しました。韓国の金源植さんについては、以前より交流があり、ずいぶんと楽しい時間を過ごさせていただきました。静岡に「アジアを考える静岡フォーラム」という外国人労働者の人権・生活・労働相談団体があり、ソウル−金州市「スタディーツアー」を企画した際には、金さんにソウルでの受け入れをしていただいておりました。地方でのNGOと韓国の地方の諸団体・グループとの自主的交流こそが、相方の国の民主化や運動の質的発展を促すという立場で、ソウルの「反核資料情報室」の会員を広げることの大切さが訴えられました。
 いま、世界が大きく変わろうとしています。ベルリンの壁やソ連邦の崩壊の流れは、日本にも上陸し、政治のあり方を問いかけています。私たち、ひとりひとりの生き方や思想をも含め、いまのままでいいのか、どうなのか、まだまだ答えが出そうにありません。しかし、このような形で、アジアの人々との関係性のなかで、ひとりひとりの人間との信頼や友情、そして相互批判のなかで私たちのこれからがつくられていくような気がしています。その意味で始まったばかりの反核アジアフォーラム、来年は韓国で開催と聞きおよんでいますが、大いに期待したいと思います。



アジアに吹く風は、
芦浜にも届いた

立花 由美子
(原発いらない三重県民の会)



韓国・台湾・フィリピンの仲間たち
 6月30日午後7時から南島町河内の民宿「南島洋」でノーニュークス・アジアフォーラムと南島町の原発反対の人たち約30名が集まって交流会が開かれた。このフォーラムが何のために行なわれたかと聞くとメンバーのひとりが次のように答えてくれた。
 「日本はいまやアジアの原発の盟主になろうとしている。インドネシアなどへの援助と引き換えに原発を輸出しようとしている。また、台湾、韓国の現地住民を納得させるため、浜岡原発へ連れてきて見せている。このように日本を中心とした原発推進者たちは緊密に結びついているのだ。だから、各国の反対する住民たちも運動の仕方を学びあい、励まし合うために強く結びつかなければならない」。
 インド、マレーシア、韓国、タイ、フィリピン、インドネシアから来た人たちは、東京での会議のあと、全国各地の原発所在地、予定地に分散して交流会を持った。芦浜もそのひとつである。
 われわれが迎えたのは韓国の金源植さん、台湾の楊従順(ヤン・シュンチュン)さん、フィリピンのコラソン・ファブロスさん、それに日本側の世話人、小村浩夫静岡大学教授である。
 金さんは70歳で日本語がとても上手。「日本の占領下で苦しめられて上手になられたのですか」と聞くと、「いや、楽しんで覚えました」とおっしゃった。ソウルの反核資料情報室の主幹である〈韓国の反核運動の生き字引のような方〉(この〈 〉内は南島町村山の大石香さんの感想による。以下同じ)。楊さんは台南で牧師をされている30代の純真な方だ〈人前で英語を話すのは初めてという青年で、やや緊張気味ながら、ベストを尽くして説明してくださいました〉。コラソンさんはマニラで非核フィリピン連合の本部事務局長をしている40代のチャーミングな方である〈たっぷりの髪の毛を背中で1本の三つ編みにしていて、どことなくかわいいタイプ〉。
 以上の人物紹介のあと、原発いらない会の小室さんが南島町の原発反対の歴史と現状についてスライドを見せながら説明した。見ながら、この闘争が30年間にもわたっていることを改めて感じた。30年前の海上デモの船はまだみんな小さかったのだ。また、タスキがけの女の人が多数参加したデモの写真にコラソンさんは拍手を送った。反対運動の若手リーダー小西啓司さんは、住民投票条例ができるまでのいきさつを語ってくれた。

海は子孫のもの
 各国の原発事情を聞かせてもらった後は自由に話し合う、ということになっていたのだが、時間がなくて1つの質問しか聞けなかった。
 コラソンさん「なぜここだけが30年間反対し続けることができたのですか」。  富田英夫さん(古和浦)「海はわしらのもんやない。このまま子どもたちや孫にゆずりわたすもんや、そう思うてやってきた」。
 コラソンさん「それは素晴らしい。でもそれはあまりに精神的です。何かもっとほかにあるはずです」。
 小倉正巳さん(同)「わしらは海の仕事をとられたら何もできやん。そやからここでがんばるしかないんや」。
 コラソンさんは、何か具体的な戦術を聞きたかったのかも知れない。しかし「これしか答えられない南島町の人たちは素晴らしい」と小室さんは言う。

アジアと芦浜
 さて、今日アジアと芦浜はつながったか。芦浜に来る海ガメには国境はない。太平洋を、東南アジアの海々を泳ぎ巡っているカメたちと同じように、私たちがアジアの海を巡れば見るだろう。私たちと同じように原発を押しつけられている人々がいる。そして何とかはねつけようと闘っている人々がいる。核兵器も原発もいりません。海ガメも私たちも、この地球という自然に抱かれて暮らしているのだ。これ以上この地球を苦しめてはいけない。

世の中は変えられる
 コラソンさんは最後にタガログ語で言った。
 「忘れるな、がんばろう。」
 何を忘れてはいけないのか。親から子へ孫へと30年間にわたる闘争を。また、今日、台湾で2万人のデモが行なわれていることを。アジアのほかの国々にも同じように闘っている人々がいることを。そして、それはいつかは大きな流れとなって世の中を変えると信じたい。



語り残したことも
多いはず
和歌山

浜本 弘也
「脱原発わかやま」



 韓国、台湾、フィリピンからのゲストと宿で合流し、夜の交流会までの時間を、楊順從さんとコラソン・ファブロスさん、小村さん、そして小生もまじえての市内観光となった。金源植さんは宿で一服。新宮城跡、速玉神社、商店や民家を巡っての町並み散策でしばし気分転換。
 交流会は夕食をともにしながらの談話で、昭和43年(1968年)以来、原発建設計画に反対し続けてきた竹中さんはじめ那智勝浦町の人々、熊野、新宮のグループが、それぞれの反原発運動の経緯を語る。一方、金さんが「アジアは運命共同体!」と檄を飛ばして交流の重要性を強調すれば、コラソンさんは「なぜ芦浜や那智勝浦町の方々は、そんなに長い間闘ってこられたのか?」と疑問を呈し、楊さんは「英語で話すのはこれが2度目で…」と前置きしながら第4原発の反対運動の現状や蘭嶼島の問題をとつとつと語る。
 互いに運動の歴史を語り合うことで時間の大部分を費やした感はあるが、勉強にもなったし孤立感もより薄らいだといえよう。何しろ画期的な出会いの場。今後は遠方の見知らぬ他人ではなく、ともに核も原発もいらない仲間である。
 提案をひとつ。時間も人数も気にせず話し合えて泊まれる場所があればもっと良かった。もとよりこれは受け入れ団体の責任ではない。運動その他で会合を持つたびに思うが、あまりにも管理された場所での出会いが多いため、いきおいコミニケーションを深める機会が少なくなる。今後、各地にそのような場を開発していけるだろうか。そのような“開発”は、会議、集会、交流、連絡、交通、動員その他、様々な場面で運動そのもののあり方に影響するのみならず、民主化、ひいてはアジアフォーラムがめざすものと密接にかかわっている、といえば大袈裟だろうか。


  
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