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「日本の原発輸出を考える」
3.1大阪シンポジウム


<インドネシアからの発言>

インドネシアにおける原発建設計画

エディ・スギアルト

はじめに

  この30年間、工業化および国家開発事業はジャワ島に集中されてきました。このような開発の極度の集中が、以下に述べるような弊害を生み出してきています。

  1. 島外からジャワ島への移民の増加。

  2. ジャワ島の肥沃な農業地帯が工業や交通や諸施設のためにつぶされていった。
    具体的には、1985年から1995年の10年間で、ジャワの農地100万ヘクタールが生産不能な状態になってしまった。

  3. インドネシア東部諸州が、経済的に取り残されたままになっている。

  4. ジャワ島における環境破壊の問題。

  インドネシアの新秩序体制下で推し進められてきた開発によって、確かにインドネシアは経済成長を続けています。しかしその恩恵に浴しているのはほんの一握りのエリート達にすぎないのです。特に、開発によってもたらされる富や華やかさは、ジャカルタのような大都市に住む者たちばかりを利する傾向があります。インドネシアの国民総生産(GNP)の52%は300のコングロマリットによって独占されており、残りの48%しか市民の手にはないといいます(1997年2月16日付 コンパス紙)。
 新秩序政府は、開発を行うことによって、インドネシアが進歩し、発展し、日本や韓国やアメリカなどの工業先進国の仲間入りをはたすことができると主張してきました。つまり、開発によって「後進性」や貧困が解決されるというわけです。この30年間の開発の中で、貧困に苦しむ人々の数は減少し、貧困ライン以下の生活を送るインドネシア人は2700万人しかいないというのが政府の示す数字です。しかし、経済学者の中には、貧困ライン以下の生活を送る者は政府の公式発表よりはるかに多いとの主張もあります。

開発は原子力を必要とするか

  インドネシア政府は、原発建設は開発、進歩、近代化、そしてすべてのインドネシア人の福祉向上のためだと主張してきました。そういった大義名分のほかに、年率7%という現在の割合で経済成長が続いた場合、開発・工業化のための電力需要が何倍にも膨れ上がることも根拠としています。
 2015年までには、現在の成長を維持するために27710MWの電力が必要になるといわれています。しかし、政府の計算によると、石炭、石油、天然ガスを含めたインドネシアの化石燃料の総量では、20685MWしか供給することができません。インドネシアの原油は今世紀末には枯渇し、中東から石油を輸入しなければならなくなるといわれています。
  上記の試算は技術研究応用庁(BPPT)とインドネシア原子力庁(BATAN)および資源エネルギー省がドイツ政府と共同で行った調査に基づいてだされたものです。この調査は、現在インドネシア文化教育相であるワルディマン・ジョヨネゴロの仲介によるもので、当時のBPPTは、技術研究担当大臣でありインドネシア原子力委員会の長であるB.J.ハビビの指揮下にありました。
  前述の7000MWの不足電力を、1998年着工といわれるこの原発でまかなおうというわけです。もしこの建設計画にゴーサインが出ると、インドネシアは12基の原発を建設することになります。
  この費用に関しては、推進派、反対派の双方で議論がまき起こっています。ジョクジャカルタにあるガジャ・マダ大学の経済学者は、原発は石炭発電よりずっと金がかかると主張しています。原発を強力に推進してきたハビビによると、費用など問題ではないのだといいます。なぜなら、すでにたくさんの外国の諸団体がBOT方式でインドネシアに原発を建設する話を持ち掛けており、準備を進めているからだというのです。
 この「援助」を申し出ている国は、カナダ、日本、アメリカ、ドイツ、フランスです。これらの国々すべてが、原発建設に関してインドネシアを支援しようとしています。ハビビは、原発建設はインドネシアの発展のためのプロジェクトだといいます。スハルト大統領自身もこの考え方を支持し、1998年には着工しなければならないと発言しました。

ジャワ島に計画されている原発建設

 この原発建設計画の予定地として、ジャワ島中部のジュパラ県で、ウジュン・ワトウ、バロン、ルマアバンの3村が立地点としてあげられました。これは、日本のコンサルタント会社NewJecの出した調査結果です。
 ジュパラとは、ムリア山の山すその近く、ムリア半島の海岸沿いにある歴史的な街です。何代にもわたって、この町は木彫りの工芸品の名産地として栄えてきました。オランダ時代の要塞など歴史的な建造物が多く存在し、インドネシアの女性解放運動の母ともいうべきR.A.カルティニの生誕地でもあります。住民のほとんどは第一次産業従事者で、農業、漁業を生業としています。
 カトリック、プロテスタント、仏教など様々な宗教が共存していますが、特にジュパラの人々の90%はイスラム教徒です。そしてそのほとんどが、国内最大のイスラム団体であるナフダトゥール・ウラマに属しています。ナフダトゥール・ウラマの指導者は傑出した民主化の闘士でもあるアブドゥル・ラフマン・ワヒドという人物ですが、彼はムリアの原発建設に抗議を続けるイスラム教の重要人物でもあります。

移住や土地の強制収用を恐れる民衆

  原発建設計画の発表は、ジュパラの住民を不安に陥れました。インドネシアが国策として実施している国内移住計画の一環として、自分たちがスマトラやイリアン・ジャヤに強制的に移住させられてしまうのではないか、特に予定地の村に住む人々はそのような不安にさいなまれています。原発に74.5ヘクタールの土地が必要だと政府が発言した事も彼らの不安を強めました。原発は私有地ではなく、国営のプランテーション農場に建てられると政府は説明してきましたが、住民たちはやはり自分たちの村が影響を受ける不安を払拭することができません。
 住民の不安を見て取った政府は、ジュパラの地方政府と協力して、原発建設を浸透させるための様々な画策(PA活動)を行っています。1992年以来、ジュパラ政府がこの問題に対処するために編成した特別チームによって、様々な活動が行われてきました。原発が立てば電気が通り住民福祉も向上する、原発は国の発展と住民の福祉向上のために建てられる。端的に言うと、これが常々政府の主張してきた事なのです。
  予定地は今や閉鎖された状態で、ジュパラの住民以外の外来者、特に原発の情報を収集しようとする者に対しては、治安要員による厳重な取り締まりが行われています。

インドネシアの反原発運動

 インドネシア初の原発建設計画の浮上は、国内の世論を二分しました。原発に反対しているのは、ジュパラの住民だけではなくて、ジャカルタ、スマラン、ソロなどの大都市でも反原発運動が生まれてきました。インドネシアの反原発運動は、1980年代初頭にジャカルタのNGO、WALHIによって始められました。NGO相互のネットワーク作りによって、中部ジャワにも、私も参加している「インドネシア反核市民連合(MANI)」が結成されました。今では、スマトラ、スラウェシ、バリ、東ヌサ・トゥンガラの島々においても反原発NGOが現れてきています。
  この数年間、インドネシアの反原発運動は、アジア太平洋地域の反原発運動とも連帯を強めてきました。特に、ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパンとのつながりは非常に強いものがあります。
  アブドゥル・ラフマン・ワヒドとロモ・マングンウィジャヤはそれぞれイスラム教とクリスチャンの宗教的な重要人物として、原発に反対してきました。そして、芸術家、文化人、学者、ジャーナリスト、学生活動家、少数ではあるけれどもインドネシア民主党の議員など様々な立場の人々が反対を表明しています。こういった人々は自分たちの立場から最も有効と考えられる活動を行っており、デモや、国会内での討論、セミナー開催、展示や啓発用ポスターの作製、世論調査などを行っています。
 1996年にコンパス紙が行った世論調査の結果は、無作為に抽出した1000人の回答者の中で、60%以上の人々がムリア半島の原発建設に反対を表明しました。

結論

 インドネシアの反原発運動が主張してきた事は、火山のふもと、地震多発地帯で原発を稼動する事の危険性、運転中の管理、そして廃棄物の処分などを含めた膨大なコスト、原子力専門家の人的資源の不足、大衆の意見や言論の自由を封殺する形で行われてきた意思決定のプロセス、インドネシアのような発展途上国を食い物にする形で国際企業が利益を得ようとする事などです。
  さらに、ガジャ・マダ大学のオットー・スマルオト教授が代替エネルギーをもっと真剣に実用化しようとする前に原子力発電を採用することの問題性を指摘しています。
 スマトラには、200年間は採掘可能な、2000万トンの石炭が埋蔵されており、ジャワには、原発の発電量の軽く15倍を賄えるだけの天然ガスが存在します。太陽光、潮力、石油などはいうに及ばずです。なんで原子力が必要なのでしょうか?
  旧ソビエトで起こったチェルノブイリの悲劇は、決して繰り返されてはなりません。発展途上国としてのインドネシアは、原子力の専門家などを欠いているだけでなく、政治が激しい汚職と癒着をはらんでいます。原子力の先進国と思われてきたアメリカや日本においても、スリーマイル島やもんじゅなどの大事故が相次いでおり、このような状況のもとで、私たちは本当に原子力に手を染める準備ができているといえるのでしょうか?
  著名なインドネシアの政治評論家であるモフタル・マスッドによると、「もし政府が、原発は国民のためのものだというのなら、なぜ民衆は意見を述べたり反対の意を表明したりすることが許されないのだ?原子力の問題は科学技術の問題ではない、これは人権の問題であり、民主的な意思決定に関する問題なのだ」
開発によって何が達成されようとも、それが民衆の参加と同意なしに行われたものだとしたら、それはまったく意味のないものです。民衆の賛成を得ることなく、この問題はまるで小さな灯台でも建てるかのように扱われているが、人々の命のために、現在生きる人々とそしてこれから生まれてくる世代のために、何としても原発の建設は阻止されなければなりません。

(訳 宇野田陽子)

 


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