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■記者会見

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記者会見の様子。
塩寮の方が発言している。

  記者会見が立法院で始まった。
  まず、議員(民進党らしい)の一人が発言する。つづいて、台北分会の頼さん、そして塩寮の人々が図を使って第四原発近くの断層を説明している。この図は前日に小郭が作成していたものだ。
  私の番だ。あらかじめ校正を重ねた北京語の文章を近藤さんに読んでもらいながらゆっくりと話す。

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記者会見の様子。


はじめに

  私は日本のノーニュークス・アジア・フォーラムの奥田と申します。
  私は、13日に台湾に来ました。
  第四原発予定地を見て、その後、被災地埔里でボランティア活動を行ってきました。
  今日は、日本の原発事故と今回の台湾訪問で感じたことを述べます。
  まず最初に、私に発言の機会を与えてくれた台湾環境保護連盟とここに集まってくれたみなさんにお礼を述べます。ありがとうございます。

東海村の事故

  9月30日に日本の東海村で起きた事故は、日本で最悪の事故でした。
  驚くほどお粗末な操作員のミスにより事故が起こりましたが、その本質は単なる操作員のミスではなく、原発をとりまく状況の本質に関係すると考えられます。

  一つは、経済性が追求される中で起こった事故であるということです。
  原発は他の発電方式より経済性にすぐれている、といううたい文句で進められてきました。しかし、実際には予想外のトラブルのために発電コストは予想以上に高くなっています。更に目処のたっていない廃棄物処理のコストは含められていません。
  これらを合わせると、現実の発電コストでは経済的な有利性はまったくないことが明らかになってきました。
  そうした中で、出来る限りコストを削減することが求められています。
  東海村の事故でもコスト削減のために操作員に十分な教育や研修を受けさせず、更に、違法な裏マニュアルによりコスト削減を図っていたことが大きな原因でした。
  これらはいずれもコストを削減するために必然的に生じていたことです。

  もう一つは、科学技術庁などの違法な運用を監督すべき部署がまったく役にたたなかったことです。
  日本以外で事故が起こるたびに、日本の科学技術庁は「日本では厳密に品質管理されており、そのような事故は起こらない」と言い続けてきました。しかし、今回の事故では品質管理とは口先だけで、現場の運用次第で重大な事故が起こってしまうことが証明されました。

  さらに、情報公開の問題があります。
  事故後、高いレベルの中性子線が放出されたことが環境保護団体グリーンピースと原子力資料情報室によって指摘されています。このために、付近の民家やゴルフ場にいた人々が、これまで発表された以外により多く被爆したと考えられます。
  また、9月30日の事故から10月11日まで、ヨウ素131が漏れ続けていたことを科学字術庁も県もJCOも公開しませんでした。漏れた量が少なかったからだといっていますが、漏れつづけていたことを分かっていながら、阻止しなかったこと、事実を公開しなかったことは重要な問題です。
    さらに、濃縮工場内の従業員の被爆者がさらに20人もいたことが、16日になって公表されました。
  このように事故の実態は何日もたってからようやく公表されたのです。科学技術庁などは、住民を被爆の危険にさらしてでも、事故を小さく見せようとしたとしか考えられません。

  このように考えるとき、私はこの事故について台湾で詳しく報道されていないことにたいへんな驚きを感じます。なぜなら、日本の原発をお手本にしてきた台湾の原発にも同じことがいえるからです。

  台湾ではウラン濃縮は行っていないから関係がない、という意味のことを言っていると聞きました。しかし、問題は述べてきたように個々の技術的内容だけではなく、コストの問題や運用を監督する方法の問題です。
  その意味では原発の運用も含めて日本をお手本としてきた台湾の原発はまったく同じ問題を抱えているといえます。
  「台湾ではおきない」という発言は、日本が言ってきた「日本ではおきない」と同じです。
  明日は台湾の番かも知れません。

埔里(プーリー)

  埔里ではいくつかのボランティア活動を行いました。
一つは壊れかけた家からの引越しのお手伝いです。また、崩れた壁を道路まで運ぶこともしました。これは道路まで運ばなければ軍が撤収してくれないからです。
  被災者のみなさんは、徐々に余震の恐怖から解放されてくると思います。しかし、その後は、実際の日常生活を再開していくための苦労がやってきます。そのため、より木目細かな(臨機応変な、個別対応の)援助が必要となりますが、現在でも援助は十分ではありません。

  日本でも、政府からの被災者への援助は多くはありませんでした。
  そのために、作家や弁護士が民衆と連帯して国会議院に働きかけ、公的援助法実現させました。しかし、それは私たちの要求の半分以下のものでした。
  台湾では公的な援助の方法について日本のやり方も参考にしていると聞きました。しかし、日本のものは十分ではありません。どうか、日本のやり方をお手本ではなく、よりよい援助を実現するための踏み台として欲しいと思います。

神戸・埔里・東海村事故・第四原発

  私は1995年1月17日に日本で起きた阪神淡路大震災で被災しました。
  当時、私が生まれ育った街と愛する人々が、炎に焼かれていくのを何も出来ずに見ていました。
しかし、その後私は大きな喜びも得ることができました。アジア各国からのたくさんの援助です。もちろん台湾からもいただきました。

  それまで私は、日本はアジアの仲間とは見ていただけていないと考えていました。日本は、アジアの国々をそして台湾を侵略してきたことに対し、十分な謝罪も補償も行ってきませんでした。だから、日本はアジアの一員となる資格がないと思っていたのです。

  しかし、多くの援助物資をいただいたことで、私は理解することができました。政府間の謝罪や保証ももちろん必要です。しかし、人と人とのつながりを築いていくことが日本とアジアの信頼を得る最大の方法なのです。私は、いただいた救援物資をいただきながらそう考えてました。

  今、私は援助物資のお返しとして発言したいと思います。今ならまだ間に合います。始めてのアジア間の原発輸出となる第四原発をどうしてもやめさせましょう。
  地震が起こることが予測できなかったように、原発の事故も予測できません。しかし、必ず起こります。しかも、地震のように誰もが救援することは不可能なのです。

  塩寮は台湾侵略の際に日本が始めて上陸した地点です。そのために塩寮には抗日記念碑がありました。私は、その抗日記念碑を悲しみを込めて見つめていました。しかし、このままでは第四原発は、はるかに大きな第二の抗日記念碑になってしまうでしょう。
  地震でも原発事故でも、まっさきに被害に合うのは民衆です。政府や大企業が決めたことではなく、被災者が助け合うように、私たちは手を取り合って、原発建設を阻止したいのです。
そのことこそが、台湾の方々にいただいた援助物資へのお礼になると私は思っています。

謝謝

  議員の方々とも握手をし、帰り支度をする。記者会見に来ているマスコミは多いのだが、なぜかほとんど質問などがない。
  会見が終わった後に質問してくるのは、英字新聞など二誌のみ。原発はすでに論点ではなくなってきているのだろうか。

  最後の昼食をみんなで食べる。今回は始めてになる普通のレストランでの回るテーブルでの食事だ。
改めて、彼らが元気であることに気づく。頼氏はいいスピーチだったといい、私がオフコース!と答えるとふざけて拳骨を上げた。塩寮の別荘の持ち主の大学院生は感動しました、といってくれた。

  今回のように、これからは実際に行動しているみなさんとより交流を持っていきたいと思います。第四原発を止めることは、台湾だけ、日本だけのことではなく、これからのアジアのために必要なことです。

私は最後にそう挨拶した。

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なお、このときの記者会見のプレスリリースが以下のURLで読めます。
もちろん、北京語です。

[新聞稿]我們準備好了??--比地震更可怕的核能災害
(環境保護連盟の主張)
http://www.teputc.org.tw/issue/nuclear/news/88102001.htm

一位日本友人的關懷
(私の原稿)
http://www.teputc.org.tw/issue/nuclear/news/88102002.htm

中子彈與用過核燃料的乾式儲存
(張国龍さんの原稿)
http://www.teputc.org.tw/issue/nuclear/news/88102003.htm

タイペイタイムス(台湾の英字新聞)の該当記事 これは英語。
http://taipeitimes.com/beta/1999/10/21/story/0000007560

 

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