■被災地 埔里(プーリー)
16日、なぜか泊まっていた台北県議会を出て、呂氏の車で台北駅まで送ってもらう、バスで4時間半、埔里に着く。バスは40人以上乗れるものだが、8人しか乗客がいない。そもそも台北に来る飛行機も乗車率10%以下だった。観光客も減っているという。いわゆる被災地以外はなんの影響もない。観光にはぜひ来て欲しいと思う。
台中の付近を過ぎても、周りの家にはほとんど変わったところはない。山を上り、埔里に近づいて始めて壊れた家が目立ってくる。壊れた家のすぐ近くで無傷(に見える)のビルで営業する店がある。ほんとに神戸に似ている。
公園で暮らす人たちも多く見える。
埔里駅であたりを見渡す。街中だが、所々に壊れたビルがある。歩いてボランティアセンターに行こうかとも思ったが、道がまったく把握できない。地図に書いてある目標物がなぜかまったく見当たらないのだ。
しょうがないので、駅の前に8台くらい泊まっていた黄色いタクシーに乗り込む。地図を指してボランティアセンターに向かってもらう。街中を遠ざかるにつれて崩れている家が多くなっているように感じる。ボランティアセンターまで3Kmほどで200元。台北でも100元以下だと思うが、これはボラれているのではなくて、単に日本人向け価格だと考えたほうが当たっていると思う。実際、その後やってきた新聞記者も200元だった。ボる気ならもっと取れるところだ。
ボランティアセンターは池のそばの小さな観光地の長老教会の施設だ。宿泊施設も多く設備が整っている。そこをYMCAが借りてボランティアセンターとしている。ボランティアもそこに泊まれる。おそらく街中からかなり距離があるため、避難者がおらず、我々が使うことができるのだと思われる。
YMCAと神戸元気村が中心になった日本人と台湾から日本への留学生のチームが一つのエリアを与えられている。
しばらくしてボランティア活動から戻ってきた人たちと紹介をし合い、食事をし、ミーティングを行った。ここには電話もFAXも整っておりボランティア活動には申し分ない体制だ。現在は20名ほどだが、100人は受け入れが可能とのことで、まだまだ余裕がある。ボランティア行動自体は神戸の体験も生かされたしっかりしたものだ。
遅くにXX新聞の記者がやってきて短く取材を受ける。神戸出身だとのこと。西菅原市場などのことを含めて話す。
正直、ありきたりの取材にはうんざりだ。長田の震災では、特に在日外国人の人々の問題が浮かび上がったように、震災はそれまでの問題を強調する形で表れる。都市と地方の問題、先住民の問題、外国人が容易に入ってはいけはしないが、その問題こそ震災で浮かび上がっているはずだ。
日本人はあの震災でなにを学んだというのだろう。
翌日の作業は、私の一年分の肉体労働を一日で行ったのではないかと思うほどだった。
夜、里帰りした台湾から日本への留学生と話をする。台湾の音楽のことや政治のこと。もちろん内省人で、民進党のほうがいいが、なぜ国民党のほうが議員が多いのか尋ねると、民進党はまだ出来て日が浅いから、といった。私が台湾のことについて詳しいことに驚いていた。一般の日本人はよっぽど疎いらしい。たしかに、私も少し前まではそうだったが。
ミーティングの様子。進行役のYMCAの馬場さんの腕の見せ所、といった感じ。 |
ミーティングの後は、酒盛り。でも、それほど量は飲んでいないみたいだった。 |
朝、出発の様子。 向こうの山の赤茶けた地肌が見えているのは、地震により崩れた跡。 |
今日の最初の作業は、この家片付け。 増築を重ねた家で、奥のほうは壁がほとんど崩れている。それを手前の道路際まで運ぶ。 |
このように跡形もなく崩れている家も多い。 |
休憩のひととき。ここに映っている人たちは、主に台北のYMCAの職員など。夜バスでやってきて、そのまま帰る強行軍。 |
阪神淡路大震災のときと同じように、建物には「危険」(赤)「要注意」(黄)に分けられ、このようなA4大の紙が張りつけられている。 |
ボランティアセンター全体の地図。半分以上が未使用状態。 |
月曜の朝、ボランティアセンターにやってきていた子どもたち。 右上の方は年内いっぱい活動を手伝うというボランティアの方。 この日から、ここで、まだ再開しない学校や幼稚園代わりに子どもたちを集めるとのこと。政府が派遣したらしい女性のメンタルケアの方が来ていた。 |