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台湾の「おでん」を食べる小郭。
台湾の食べ物はおおむねうす味だが、豚の血のおでんなどもあり、おいしい。

  いったい何から書き出せばいいのか、と思うほどたくさんのことを体験した旅だった。単に多くの人々に会ったというだけでなく、私の心の底の部分が解放されるような思いをいだいた。

  単独、台湾に到着した私はなんとか待ち合わせ場所の台北駅のロッテリアにたどり着くことができた。迎えてくれたのは通訳をしてくれる日本人留学生の近藤さんと台湾環境保護連盟台北支部の郭(ゴオ)氏。xxちゃん、と呼ぶときの小を付けて小郭(シャオゴオ)と呼べという。
  台湾環境保護連盟の頼氏も含め打ち合わせした後、小郭、近藤さんと3人で汽車(ほんとに汽車。ディーゼル)で台湾第四原発予定地塩寮に向かった。

■楊貴英さんの言葉

  駅を降りてすぐのところにある釣具屋が楊貴英さんの家だ。楊貴英さんは塩寮反核自救会でずっとアクティブに行動してきた人で、私が今回もっとも会いたかった一人だ。

  食事をいただきながら話をする。今回はできるだけひっそりとやってきたこともあり、食堂で何人もが円卓を囲むような食事ではなく、釣具屋の応接で弁当と手製のスープをいただく。
  台湾の家のつくりは、一階はだいたい土足で入れる広間のようになっており、そこに応接セットと食卓がある。食事をしながら、やってきた客も気軽に話しができるという作りだ。そこで食事をすると、ちょっとやってきた友人という感じで、私たちを日本人と知らずにブラッとおじいさんが入ってきて話していったりする。私はそれが何より嬉しかった。

  しかし、私からはなかなか話を切り出せない。監察院からの再調査勧告なども強制力がなく工事が始まってしまい、切り札を無くした中でなおかつ積極的に反核四(第四原発反対の意)を貫く楊さんに私がなにを言えるのか。何を尋ねることができるというのか。

  楊さんのほうから話しだした。日本で事故が起こったように台湾でも必ず事故は起こってしまう。あちこちで原発ができれば、あちこちで放射能は漏れ、私たちはどこに住めばいいのか。原発の危険性と加害性を話す楊さんの口調は厳しくゆらぎがない。

  東海村の事故のことを聞かれる。台湾では地震の報道が多いこともあり、あまり報道されていないという。そのくせに、小渕首相が原発から撤退することはありえないと語ったことがしっかり記事になっていた。
  ヨウ素がもれていたことがずっと後になって公表されたこと、避難体制ができていなかったことなどを話す。
  事故の実態がなかなかわからなかった理由としてデータの公表が不充分であることを話す。しかし、それを台湾の人に話すことは、同時にそういった日本の状態を許してしまっていることになることに自分たちの非力さも思い知らさせる。

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楊貴英さん。
手前に見えるのはブンタンかザボンに似た柑橘類。塩寮でも埔里でもよく見かけた。

  楊貴英さんは、台湾に原発を輸出するなら、事故が起こったとき、輸出した人がまっさきにそこに入っていくべきだという。それができないなら、原発を輸出すべきではないという。
  楊貴英さんは、原発を輸出するなら、そこで出るゴミ・廃棄物も当然引き取るべきだという。それができないなら、原発を輸出すべきではないという。

日本の誰がこの問いに答えられるのか。

  タイムスケジュールを作成し、目標を決めて、推進側にプレッシャーを与えるべきだという。おもわず、それは私たちが一番苦手なことだ、と口走ってしまう。

  私が楊さんの話すことに、いちいちもっともだといい、小さくなっていると、思ったことを言っているだけですから、と慰められてしまった。でも、本当に日本に言いたいことの半分も言っていないのではないですか、と私はこたえた。

  このとき、台北に戻った後に記者会見を行うことを知らされる。私にも発言の機会が与えられるそうで、日程の調整を聞かれる。私が考えていると楊さんが、「被災地に行くのなら、そこを見て帰ってきてから、地震のことと絡めて話したほうがあなたの言いたいことが伝わるのではないか」と言った。その通りである。地震のことも原発のことも私にとっては同じ問題として存在している。
  言葉も通じず、長い距離を隔てて暮らしてきたのに、どうしてこんなにも理解してもらえるのだろうか。人と人とのつながりは言葉でも距離でもない、そう教えてもらった。

 

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