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参加者報告記 特別収録

 

 

神戸からの声


とーち

 

 日本の神戸市長田区からきました、とーちといいます。
17 Jan, 1995。神戸で起った地震で多くの被害が生じ、6000名を超える人々が亡くなりました。
一瞬にして崩れたビルや家に、破裂したガス管から吹き出るガスが火をつけました。広範囲に同時に火災が生じたうえ、崩れた家で道路がふさがれ、水道管も破断していたため、消火活動はほとんど行えず、完全に燃え尽きるまで、火は建物と人々を焼き尽くしていきました。

 このスライドが私の町、長田です。私の育った家はこの写真の30mほど向うです。地震が起ったときは、私はここから200mほど離れたところに住んでいたので助かりましたが、多くの隣人はこの焼け跡の下に埋まっています。

日本の技術は大地にひれ伏していました。電話は不通になり、地震計の信号も伝わらず神戸が壊滅していることを外部の都市ではしばらく気づくことすらできなかったのです。
私たちは助け合って生きようとしていましたが、火を防ぐことはできず、私たちの目の前で火は人々を閉じ込めたままの建物に燃え移っていきました。
火が消えたあと、日々の糧こそが私たちに必要なものでした。
電気も水道もガスもない真冬の寒い国際都市神戸。焼け残った建物に遺体が並べられる横で、私たちはわずかな水を分け合いました。

 しかし、生き残った私たちには希望も用意されていました。缶詰、インスタントラーメン、チョコレート、文房具、食器。数え切れないほどの種類の、数え切れないほどの品物が、アジアの国々から、アジアの人々から送られてきました。
 ここに集まっているアジアの友人たちにそのことについてお礼を述べたいと思います。

I thank you.
I thank your country.
Thank you.

 私は地震を生き延びることで、2つのことを感じました。
 一つは、日本の豊かさは人々のためのものではない、ということです。
 日本は敗戦後、ひたすら豊かになることを目指してきましたが、それは人々のためではなく、経済機構自身のためでした。現に、ようやく生き延びた被災者に公的な援助はいまだに行われず、経済的、精神的な理由から亡くなる人が今も絶えません。神戸で行われている復興とは「経済の復興」にしか過ぎずその恩恵にあずかれないものは命を削って生き延びているのが実状です。
その状況は、私が多くのことを学んだ南島町に似ています。そこでは日本政府と企業が、人々の暮しと漁業を踏み潰し、経済のみを追求し原発を建てようとしていました。それと同じことが神戸で行われ、そしてアジアへ輸出されようとしているのです。

 しかし、大事なもう一つのことも私は学びました。人々同士の連帯こそ、必要なものであるということです。
「人を救うのは人しかいない」ほんとうに人を助けることができるのは、政府でもなく、行政でもありません。人々のつながりの中で生まれた工夫と行動が多くの人々を救いました。それは、日本の政府や軍隊が十分に機能しなかったことと極めて対照的です。
そして、それは国をこえたグローバルな関係においても同じことがいえます。私たちのつながりこそが人を救えます。

私は93年の日本でのノーニュークス・アジア・フォーラム以来、日本でアジアフォーラムの活動を行ってきましたが、海外でのフォーラムには一度も参加しませんでした。それは、私にアジアを訪れる資格があるかどうか自信がなかったからです。侵略者であり、かつ現在もその罪をしっかりと認めようとしない日本という国に住む私が、アジアを訪問することが許されるかどうか、自信がなかったからです。しかし、震災の後、そんな私たちにも救援物資をいただけたことで、私はこう決意することができました。
「私は生涯このお礼を述べて行こう、そして連帯の中でこそ過去の謝罪のチャンスがあるだろう。重要な過去への謝罪の一つは、今の過ちを防ぐことなのだから。」

 愛する町も、愛する人々も焼き尽くされていきました。でも、それが地獄だとしたら、しかし核の地獄はさらに長く、ほとんど永遠に人々を苦しめ続けるでしょう。私は神戸で亡くなった魂に励まされてそのことを伝えにきました。

※ 本原稿はアジアフォーラム通信には未掲載でしたが、Web版のみ特別に収録いたしました。


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