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参加者報告記

 

 

フィリピン原子力研究所(PNRI)訪問


小村浩夫

 

   フォーラムの翌日、フィリピン原子力研究所(所員137人)を訪問する機会があった。ここを訪れた日本人は少ないだろうから、その紹介という意味で見学記を書いておこう。

 このこじんまりした研究所はフィリピン大学の近く、ケーソンシティにある。バタアン原発が欠陥原発でなく順調に稼働していれば、この機関は本来原子力委員会の機能を果たすはずであった。現在は放射線の医学、工業、農業への利用(食品の放射線照射を含む)や放射化分析、労働者被曝の計測等が業務内容であり、原子力研究所という概念からはかなりはずれているが、小さな研究炉を運転していることに原研らしさを、放射線源使用の許認可権や監督権をもつことに行政官庁的な色彩を保持している。ちょっと非力な気もするが、ラモス政権がもくろむ原発推進策が具体化するときは、科学技術省とその傘下のPNRIが主体にならざるを得ないことは間違いない。対外的にもこの機関が原子力分野の交流の窓口で、日本の原研、動燃、国際協力事業団(JICA)等とのつながりもここを通して行われている。

 アレタ所長を始め数人の所員が真摯に対応してくれたが、話の内容はやはり通り一遍のものにすぎなかった。その話のひとつ。フィリピンは「フィリピン2000」という名の開発計画を進めている。町を走る車のナンバープレートには、 Philippine 2000 の表示を見ることができる。この計画の中には、ルソン、ミンドロ、ネグロス、ミンダナオ島に10ヶ所の原発を立地する計画が含まれている。その立地点のいずれもが、第1級の活断層に近く、近くに活火山まであるところもある。この点の指摘がフォーラムで私が話した内容の中心だったのだが、それはさておいて…。どの程度の規模の炉を何基ずつ建設するのかなどの詳細はなにも決まっていないらしい。ましてや炉型の選定などはずっとあとの話であろうし、10ヶ所の立地点の選定なども、すべてが可能だとも考えていないのだろう。ただ、ルソン島以外にも立地点を求めることは間違いなく、フィリピン諸島間の送電網は海底ケーブルまで使って張り巡らす計画になっている(一部は既設)。この点は目新しい話だったので、「ミンダナオの原発がどの程度の出力になるのか知らないが、大きな原発をつくって発電した電力をルソンへ送るなら、ミンダナオの人達は大した利益も受けることなく、事故の恐怖に脅かされることになる」と指摘した。所長の答は「ミンダナオにもいずれ経済特区をつくるから、電力消費は増えるはず」というものだったが、あとでフィリピン非核連合の中心人物の2、3人から、「あなたの指摘は新しい視点だった」といわれ、こちらのほうがショックだった。僻地へ原発をつくり都会へ送電するというのが、原発のもつ差別的な特徴のひとつというのは私達にとって共通認識のはずだからである。

 あとで所内の見学があったのだが、研究炉のなかを見せてくれたわけではなく、放射線計測に関する部分だけであった。所内で出る低レベル放射性廃棄物以外にも国内の廃棄物を収集して処理しているそうで、ドラム缶への充填設備と廃棄物保管庫を見た。工事現場で見かけるセメントミキサーの横に小さな充填装置があるだけ。すぐ近くにコンクリートで固めた小さな保管庫がついている。いかにもちゃちな気はするが、日本の原発の充填設備も同じこと。別にフィリピンだけがとりわけちゃちなわけでもない。ただ、日本ではセメント固化はもうしていない。現在つかんでいるところでは、加圧水型はアスファルト固化(少なくとも九州電力はそう)、沸騰水型はプラスチック固化である。セメント固化はやはり水に弱いので、日本では大分前に切り替えたらしい。

 とにかくフィリピンの原発計画はこれから。まだ海のものとも山のものともわからない。帰りの便を待つマニラ国際空港出発ロビーに、ABBAtom(アセア・ブラウン・ボウェリ−アトム、スエーデン発祥の国際原発企業のひとつ)の大きな広告を見つけた。写真にはタービン羽根や電車が配されていたけれど、原発への言及はなかった。

 そのあと訪れたバタアン原発の印象のほうが、もちろんもっと強烈。しかし多くの参加者がとりあげるだろうから、いいたいことをふたつだけ。

 送電線のない原発とはなんとも異様だ。なんの電力も生み出さずただ建っているだけだから当たり前なのだが、実際に見て、以前訳出した「バタアン原発−フィリピンの恥」という、現地反対組織−バタアン原発反対ネットワークのリーフレットの表題を改めて噛みしめたものである。

  この原発に関しては、原発としての復活、天然ガス発電所への転用などが取り沙汰されていたが、原発として使わないことが今回確認できた。原発の職員によると、内部の燃料をドイツのシーメンス社に2500万ドルで売却する契約が結ばれたという。これでおしまい。バタアン原発は人間の愚行の記念碑として残せばいい。日本には記念碑とすべき炉が52基も存在する。これは私達の恥である。

 

 

 

9月4日・夜 バタアンへ


佐藤大介

 

  ノーニュークス・アジアフォーラムの「キーワード」なのだが日本人からは言い出しにくい「国際連帯」という言葉がある。理由はいくつもある。「我が国」は南の国々の民衆に対して「貿易」という名の「収奪」を続けているし、その上今度は、原発輸出だ(フィリピンの人々はこれを「新たな侵略」と規定していた)。それに対して私たち日本人は極めてささやかな運動しかできていない。「国際連帯」なんて「おこがましい」どころか「どのツラさげて……」といったところだ。

 9月4日深夜11時半ころ、各国からのフォーラム参加者を乗せたバスがバタアン現地の宿舎に到着した。なんと、50人くらいの地元の人たちが待ってくれているではないか。びっくりした。バスを降りる私たちに向かって彼・彼女らは手拍子をしながら大きな声で叫ぶ、「ノーニュークス! インタ・ナショ・ナル・ソリ・ダリ・ティ! インタ・ナショ・ナル・ソリ・ダリ・ティ!……」。その6拍子のリフレインはバタアンの夜空に散らばり、すいこまれていった。南の空を見れば今でも聞こえてくる。バタアンも大阪も同じひとつの空なのだから。

 

 

 

9月5日 バタアン現地交流


鷲尾由紀太

 

  バランガ郊外の宿泊地に私たちが着いたのは夜の11時だった。数十人の「インタナショナル・ソリダリティ!」という掛け声と拍手で迎えられる。海外とフィリピン各地からの参加者をバタアンの人たちが夜中まで待っていてくれたのだ。

  翌朝、モロンにあるバタアン原発へ。国営電力会社の係員は「原発は電力需要を賄う選択肢の一つ。この原発は天然ガスのコンバインサイクルに改造する」と説明する。銃を持った警備のいるゲートを入り、民衆の運動が運転を阻んだ原発を見る。運動を担った人たちは、政府はまだ原発運転という選択肢を捨てていないし、敷地内に別の新しい原発を建てることもあり得ると警戒し続けている。

  浜辺へ移動して「非核バタアン運動(NFBM)」などの主催の交流集会が始まった。地元のさまざまな人たちと、海外とフィリピン各地からの参加者をあわせて200人あまり。「原子力政策は外国の独占資本の儲けのためであり、民衆の幸せにはつながらない」と初めの挨拶。つづいてNFBMの代表、ダンテ・イラヤさんが反対運動の経過と教訓を述べる。軍の弾圧が厳しくても、各バランガイ(最小の行政単位)ごとに小さな話し合いを重ねて、住民がデモに集まるようになったという。素敵な海を見ながらの昼食の後は、地元のさまざまな人たちからの発言。人によってはタガログ語だ。労働者のプリモさんは、警察軍がデモを妨害した86年のメーデーの話。漁民の人は「原発がどこに予定されても漁業を守るために反対する」。アナベルさんは200人の学生が村を訪れて担当地区を決めて2ヶ月間教育活動をした話。当時教員だったカルメンさんは警察軍と対峙してバリケードを守った85年の話。ロミオさんは弾圧が厳しくシンポジウムの資料を埋めて隠した70年代末の話。原発から5キロのところに住むカトリック信徒のベサリオさんは「この闘いは、マッカーサーが戻ってきて以来のアメリカに対する闘いの一部です」と言った。フィリピンの民衆には、スペイン、アメリカ、日本、再び直接間接のアメリカの支配と、外国の支配に苦しみ、これと闘ってきた歴史がある。日本のとーちさんや韓国、台湾からも発言。小木曽さんは日本軍の残虐行為についてすまないと思うと話した。新しく原発候補地とされたミンダナオ島やネグロス島からの参加者は、これから反原発運動をやる、集会もやると発言。彼らにとってバタアンの闘いを見聞できたことは有意義に違いない。

  夕方からは2000人規模のデモと集会。出発地点ではインドのガデカルさんも宣伝カーの上でアピール。竹筒で作ったトーチに火を灯して掲げて歩く。バランガでの集会ではアメリカ帝国主義を弾劾する寸劇の後、タガログ語での演説が続く。海外参加者を代表して小堀直子さんが短いスピーチ。海外参加者全員がステージに上げられる。最後はバタアン原発をかたどったハリボテを燃やす。草の根の元気に出会えた一日だった。

 

 

 

現地でのスピーチ
バタアン原発との闘い これまでと現在(抄訳)


ソニア・P・ソト(中部ルソン・ノーニュークス・ネットワーク)

 

  原子力の侵略と闘った我々の勝利を守りぬこう!バタアン原発と包括的原子力プログラム(CNPP)を許さない徹底した闘いを展開しよう!

  フィリピン民衆はバタアン原発に対する輝かしい闘いの歴史を築いてきた。1970年代から20年間続いてきたこの闘いは、現在の世代に、そして次の世紀へと継承されている。かつてバタアンは反原発の中心地であったが、現在も反核の闘いの最前線であり続けている。ここでバタアン民衆と全フィリピン民衆が勝ち取ってきた教訓は、現在の国内外の反核運動にとって一つの指針となっている。
  マルコス独裁政権下での反核の闘いを担ってきたのはバタアン民衆であった。70年代後半になって建設が始まると、バタアン原発はたちまち絶え間ない民衆の抗議の的となった。76年には、すでに尊い血が流されている。住民を鎮圧しようとする攻撃の中で、傑出した活動家でありバタアンの地元住民であったエルネスト・ナザレノが凶弾に倒れた。しかし民衆はひるむことなく、彼の殉死を目の当たりにしてさらに闘いを確かなものとした。しかしマルコスはバタアンに次々と増強部隊を送り込み、建設を強行していった。81年以来保安部隊や警察部隊も無数に配備されており、工事が終わった82年には、フィリピン海軍の1個大隊が増強配備されていた。
  そのような中で、次に原発の運転を阻止する闘いが展開された。82年から84年にかけてバタアン民衆は、近隣諸州及びマニラの仲間たちの協力と参加のもとに、継続的な反核キャンペーンと教育活動に着手した。草の根レベルでの組織化が進んで行ったのもこの頃である。「非核バタアン運動」もこの時期に産声を上げた。そして84年には、民主化を求める民衆団体と並んで、我々はマルコス政権にとっての脅威となるまでになった。

  84年の国際人権デーにあわせて、「非核バタアン運動」を中心としたバタアン民衆は、初めての全州規模の抗議行動を行った。「バタアン原発はいらない、マルコスは退陣せよ」の声に応えて、何千という民衆が路上に結集し、かつてない戦闘的で大規模な民衆ストライキを行った。
  この民衆ストライキは、さらに激しく広汎な85年の闘いへの序曲であった。すでに四面楚歌の状態にあったにもかかわらず、マルコス独裁政権は民衆の抗議を武力で鎮圧し、バタアン原発を稼動させようとしていた。この年の暮れまでには、核燃料が装填される計画となっていた。
  この極めて重要な時期、バタアン民衆は近隣諸州及びマニラの民衆とともに、さらに85年にも民衆ストライキを決行した。ある地点では5万人を超える民衆が市街を埋め尽くし、フィリピン軍の戦車や装甲車に立ち向かった。これは84年のストライキの焼き直しなどではない。この後数ヶ月にわたったエドサの闘いと同様のピープルズ・パワーが、このバタアンの地で初めて爆発したのだった。

  それからマルコスが倒れ、アキノ政権は86年にバタアン原発の閉鎖を余儀なくされた。しかし支配層は今も、帝国主義的な主人に莫大な利潤を与え続けるそのしくみを放棄しようとはしていない。
  闘いはまだ終わってはいない。現在我々が直面しているのは、バタアン原発の運転を阻止し、包括的原子力プログラムそのものを無効とする闘いである。これまでに得てきた教訓と勝利をしっかりと掲げつつ、さまざまな国の仲間たちと連帯しながら、今我々が直面している問題はこれまでより数倍困難なものであるといえる。もしラモスがこのバタアン州モロンの地に新しい原発を建設することを決意し包括的原子力プログラムを強行しようとするならば、我々民衆はしっかりと、そして広汎に団結し、国内的にも国際的にも反原発の闘いを続けていかなければならない。

  今日ここバタアン州モロンに結集し、我々は自分たちの歴史的な抵抗運動の教訓と成果を再確認した。そして固く我々の腕と腕をつないで、原発に立ち向かっていこう。

  フィリピン全土に、そして世界中に響き渡るほどに、声を一つに合わせて叫ぼう。

  バタアン原発はいらない!ラモス政権の帝国主義的原子力政策を粉砕せよ!反核国際民衆連帯ばんざい!打倒帝国主義!バタアン民衆ばんざい!

 

 

 

9月5日・夜 Kuroshio Solidarity


とーち

 

 バスから降りると、そこにはすでにたくさんの若者が集まっていた。ジプニーやトライシクルが行き交う道路を出発点に向って歩いていく。見通しがきかないのでよくわからないが、見える限りの道路上は人でいっぱいだ。僕はトイレを借りようと近くの食堂に入り、訪ねる。「あるよトイレ!」と日本語でいわれ、ずっこける。どうして日本人だと分かったのだ?そうそう日本人観光客がくる場所でもないのに、どうして日本語を知ってるのだ??ひょっとすると、彼女の身内のだれかは日本に来ているのだろうか?空港からのアテンドなど裏方の仕事を精力的にこなしてくれたジュリウス氏の妹が、日本人と結婚し日本にいるといっていたのを思い出した。そういえば、彼もけっこう日本語を話せていた。

 パティス(魚醤。タイのナンプラー、ベトナムのヌクマムに相当。それらの中では一番くせがなく日本人向きだと思う)やビネガーなどが並ぶ調味料の棚やクッチャロン(豚の皮を揚げた菓子)を揚げる油槽の横を通り抜けて出てきた僕はせいいっぱいの英語とフィリピノ語で礼をいう。彼女はせいいっぱいの日本語でこたえてくれる。あ?こんな感じ、どこかで感じたような……。

 出発点では、若者だけでなく年配の人々もあふれかえっていた。原発の模型を屋根に付けたジプニーのボンネットの上でアジテーションが始まる。フィリピノ語なので、内容は分からないが、激しく、訴えかけるような、あるいは叱り付けるようなアジテーションだ。もう、日本では聴くこともできないようなアジテーション。いや、こんな感じ、どこかで聞いたような……。

 デモは始まる。人々は横断幕を、そして竹筒に灯油を染み込ませた布を詰めたたいまつを掲げて進む。ここはフィリピン、ここはバタアン。極めて重要視されていた米軍基地をしかし、すべて引き上げさせた国。それがフィリピン。完全に建設が完了していた原発を一度も稼動させずに止めさせた。それがバタアン。しかし、今新しい政権の元でも再び原発は計画され、建設へと動き出そうとしている。

 人々の列は長く、私が最後尾を見ようと10分以上立ち止まってもいっこうに終わる気配がないほどたいまつの炎が続いている。先頭では、若者たちが長い竿の先にはためく巨大な旗をひらめかせる。ああ、こんなデモ、どこかで見たような。

 デモの終着点は、教会の横にある巨大な広場だ。ステージの上では、風刺劇で始まりアジテータ達の声が響く。女性の凛と張り詰めた声、地元の男達の熱い声、そして今年日本へも来てくれたシンブラン教授もここでは見事にアジテータである。やがて、ジプニーの屋根にあった原発が舞台前に置かれ燃えていくのを見ながら考えた。

 この感じ。自分達に誇りをもち、闘いを怖れない意志の感触。そう南島町だ。3000人の南島町でのデモ、中電へのデモなど数々の南島町の人々の行動に、なんとこのバタアンの行動は似ていることだろう。NFPCのコラソン女史が南島町を気に入っていた訳もそこにあったのかも知れない。

 デモの数時間前、私はバタアンの会場で、神戸の震災に対する支援について礼を述べ、日本の技術が民衆を守るものではなかったことを説き、そして南島町の人々の闘いについて伝えた。そうした私の発言にフィリピンの人々は拍手を惜しまず、何人かの人は後に私に握手を求めてくれた。「私たちも多くの災害を受けたので、あなたの気持ちがよく分かります」と一人はいった。地震国であること、島国であること、よく似た環境を持つこの国。そして米軍基地、原発、よく似た問題を解決していった国。

 そうだ、遥か海を隔てた我らの島も、フィリピン・台湾・日本をなぜる黒潮の流れに沿えば一つに繋がる。きっと私たちは、離れてはいない。フィリピンの闘いは実はすぐ近くに、私の傍らにあったのだ。

 

 

 

「開発という企て」の解除を、今こそ!


横山正樹

 

 バタアン半島のモロンにある原子力発電所へは、かつて一度だけ行ったことがある。アキノ政権発足後1年たった1987年のこと。前の職場、四国学院大学の学生たちとのゼミ旅行で、近くにある輸出加工区見学から足を伸ばした。今回と違って、敷地内に入ることはできなかった。すでに「モスボール化」(密封処理)されて静かに眠る原子炉の建屋を道路からはるかに見下ろす。海岸からそう遠くない、町からは離れた丘陵地。日本各地の原発とくらべても、やはり似たような環境が選ばれているとの感想を抱いたものだ。

  9月4日深夜に、熱心な学生3人とともにマニラ入りし、NFPCに連絡を取ると、翌朝5時出発、高速艇にてバタアン入りということに。ラマオ港から迎えの車で9時ごろようやく皆さんと感激の合流。体力的にはきつかったが、学生たちにとっても印象深いイベント参加となった。当日マニラに戻ったのはまた深夜。多忙な中、手配・案内などにあたってくださったコラソン・ファブロス事務局長、ジュリウスさんをはじめNFPCの皆さんに深く感謝したい。

  マルコス時代のモロンの原発建設をはじめ、こうした巨大プロジェクトは国際的な資金調達なしには一歩も進まない。ODA(政府開発援助)へは、すでに批判が高まっている。市中銀行の融資をコーディネートする日本輸出入銀行やアジア開発銀行・世界銀行の役割にもいっそう注視しなくてはなるまい。原発・火力発電所建設などを軸に推進される開発主義への批判だけでなく、発想のレベルで、私たちの多くがそこに取り込まれてしまっている「開発という企て」の解除が、今こそ必要だと考えている。具体的には何をすべきか、アジアフォーラム関係のみなさん、そして周囲の学生たちとも、日常の中で、じっくりと話し合っていきたい。

 

 

 

モロンの集会で感じたこと


古川英子

 

  バターン州モロンでの交流集会には、非核バタアン運動(NFBM)のリーダーや地元のさまざまな職業の人たちがビーチサイドの会場に集まった。

  1976年、バタアン原発の建設が始まり、モロン住民は失業者が減り地域が発展すると喜んでいた。NFBMによる地道な活動により、安全性に対する疑問から原発は必要ない、自分たちはだまされていたことに気がつく。子供、女性、老人も参加してネットワークができ、違ったセクターの応援も加わりローカルからグローバルへと運動の輪が広がった。運動は原発のみならず、マルコス政権、外国勢力も非難する運動に発展する。

  スピーチでは「帝国主義的外国資本」「侵略勢力」と、ドキッとすることばがぽんぽん飛び出す。戦後52年たった今も、犠牲を押しつけられるのは弱い立場の人民であるという構造は変わりなく続いている。アジアに対しての加害国、日本の国民である我々は、彼らの苦しみを共感、連帯し、裏切らないことがアジアに住むための礼儀であると思う。

 

 

 


庄野千穂

 

  今回のアジアフォーラムで私が参加したのは7日間のうちのたった1日である。だがその1日の内容は、密度の濃いものだった。原発をめぐる民衆側の声を聞くだけでなく、原発関係者とも接する機会があった。そして、実際にバタアン原発を見ることもできた。

  どうして次世代のエネルギー源として原子力エネルギーが受け継がれるべきではないのか。原子力発電所で少しでもミスを犯したら、重大な危険がある。副産物のプルトニウムは自然界で分解するのに気が遠くなるような年月がかかる。原子力エネルギーを日々のエネルギー源として使うことは、核兵器を生み出しやすい状況を作り出すことにもなる。

  私は、あの1日間の体験で、原発への認識をさらにはっきりとしたものへと変えることができた。

 

 

 


小堀努

 

  フィリピンに着いてから5日目に、僕たちはバスに乗った。バタアンというところに行った。着いたのはめっちゃ夜中やったのに、向こうの人たちは、起きて待っていてくれた。なんか、向こうの人たちのもてなしみたいなのは、すごく嬉しかった。

  次の日、バタアン原発の予定地というか、跡地というか、そんなところへ行った。そこは、かなりずさんというか、えぐかった。その後にフォーラムみたいなのがあって、その後バスでデモ行進するところへ行った。そこでいきなり、たいまつを渡されて火をつけた。デモに参加していた人はすごい数だった。僕より年下の子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまでいっぱいいた。向こうの人にとって、お祭りみたいなもんなのかなと思った。言葉がわからなかったけれど、車の上で演説しているおっちゃんがいた。すごい迫力だった。おこっていた。いろんなことに対して。若者も、警察がどうだとかいろいろ叫んでいた。"nuclear―イ・パクサ"こんな感じのことを叫んでいた。みんな楽しそうだった。僕も楽しくなってきて、一緒になって叫んでいた。そしてかなり歩いた。結構しんどかった。でもみんな叫んでいるのに元気だった。

  そしてなんか広場みたいなところで<アメリカ> な帽子をかぶった兄ちゃんたちが、劇をしていた。いまいち意味はわからなかったけれど、最後はみんなで力を合わせてアメリカを倒す!みたいな感じだった。そしてみんなで歌を歌ったりして、最後に原発の模型を燃やした。すごかった。

  フィリピンは熱い国だった。人も街も、空も海もにおいも、食べ物も、色も。すべてが熱かった。日本の人たちもあの熱さを見習うべきだと思った。

 

 

 

ノーニュークス・アジアフォーラムに参加して


沢田公伸

 

  今回のフォーラムに参加している間、思いで深い出会いを何度も経験しました。その内の一つのエピソードを皆さんにご紹介したいと思います。

  バタアン州モロンでの現地集会が終わった後、私たちは「たいまつデモ」に参加するためバスに乗ってバランガに向かったのですが、私はその車中で非核フィリピン連合全国議長のローランド・シンブランさんとたまたま同席になりました。そこでシンブランさんからフィリピンの学生たちや若い活動家たちのことについて話を聞く機会を得たのです。フィリピンの主な大学では「アウトリーチ・プログラム」と呼ばれる体験学習プログラムがあり、多くの学生が農村などのコミュニティで長期にわたるホームステイや調査を行い、地方での生活や社会問題をじかに体験する機会があること。そのプログラムがきっかけで、のち民衆組織のオーガナイザーとして活躍する若手も少なからずいること。そしてそれぞれの地方ごとに才能があり人々から信頼されているリーダーが次々と輩出していることなどを述べたあと、次のように付け加えました。「もし私の身に何かが起きたとしても、運動を継承してゆくだろうリーダーたちがまだまだこんなにいることが、バタアンの現地集会で目の当たりにできた。私はそのことがとても嬉しい」と。フィリピンの民衆運動の活力は、このようなリーダーたちの献身と、彼らのよせる後の世代たちに対する信頼感が下敷きとしてあるのだということが、よくわかるシンブランさんのお話でした。

  フォーラムを通じて、また現地集会や「たいまつデモ」に参加している学生たちや若い活動家たちの姿を見て、フィリピンの若い世代たちが<未来>を確かに自分のものとして引き受けていることを、私は実感することができたとともに、同時にそれがとてもうらやましく思われました。

 

 

 


岩田雅一

 

  海外は93年のドイツにつづき今回のフィリピンが2度目。言葉が通じないので海外に飛ぶのは消極的になる。宗教者の会の派遣を韓国、台湾と辞退し、インドネシアは声がかからず、今回やっと重い腰を上げた。個人的には、フィリピン・キリスト教会の「解放の神学」やカトリックの「キリスト教基礎共同体」(底辺の民衆の連帯をベースにした教会)に関心がある。しかしなにせ超過密のスケジュール。そのうえ写真班をかってでたのでフォーラムはほとんど「カメラレンズを通しての参加」だった。風景・街並み・現地の人々の顔だちなどに気持ちが揺れ、ルポルタージュ・フォトに必需品である広角レンズを移動バスの中に置き忘れたり、猛烈に?シャッターチャンスを逃した。最も感動的だったのはマルコス独裁政権を打倒し独裁者を国外に追放した民衆の喚起力だ。現地民衆の闘いの証言、たいまつデモを歓声をあげて迎える沿道の人々、バランガでの集会の熱気、等。「帝国主義は打ち倒せ」「官僚資本主義は打ち倒せ」「封建主義は打ち倒せ」が70年代以来、デモのスローガンらしい。そして新たに「国際連帯!」

  私はフォーラム2日目、大庭さんの通訳で「六ヶ所報告」をした。「六ヶ所村は現代日本の抑圧の最前線」という事実をいくらか伝えられたと思う。中央政治・資本・行政間の癒着構造、開発ブローカーの暗躍、開発の結果もっと貧困になるしくみ等、フィリピンと六ヶ所は共通している。しかし、「貧困」ゆえに開発に安易に乗り、中央(政府)と資本に従属しモノが言えない六ヶ所村に対し、貧困が政治・経済的重圧を逆に民衆のパワーで跳ね返したフィリピン、その差は決定的に大きい。やはり日本の場合、経済大国の中の「中途半端の貧困」でしかない。それが六ヶ所村の悲劇を招いたのか。フィリピンの闘う民衆に接し、私の思策は一つ深まった。
大庭さんは通訳、宇野田さんは難解な資料原稿の翻訳で私を助けてくれた。

 

 

 

9月6日 GEO−FARMを訪れて


橋爪健郎

 

  GEO-FARMのGEOとは、GLOBAL ECOLOGICAL ORGANIZATIONと「地」の意味のGEOをかけているのだ。スタートして5年になる。創始者のゲバラ氏一家を含め、2家族大人7人とその子供らがメンバーである。氏はエリートコースの人物であったが、朝5時から出勤、夜9時帰宅という暮らしで家族とのふれあいもなく、子供たちが自分の知らないところで大きくなっていくのを見てこれでいいのだろうかと疑問を持った。思い悩んだ末、まず生きがいのある暮らしだという結論に達し、それまでの生活から決別した。

  2.3ヘクタールの畑地にフィリピン全土から700種類の植物樹木を移植、約200種類は薬草である。この国でも絶滅の危機に瀕している種が多いので生態的多様性の大事さを提起しているのであろう。

  かつて飢えるということのなかったフィリピンが開発によってゴミ場をあさる人々が増えている現実。「味の素」の問題。日本の漁船がフィリピンの近海で獲った魚をフィリピン国民が缶詰で買わされる。などの例を挙げ、「人間が自然の一部だとしたら人間が食として摂り入れるものはどうあるべきでしょうか?」と、今フィリピンが直面している食の問題を対話形式でわかりやすくゲバラ氏は問いかけ展開していく。「白砂糖はよくない」という話も知識だけでなく、目の前でサトウキビを丸かじりしている子供らの前で聞くと意味合いが違ってくるのだ。

  そこであるべき発展や技術とは何かという話になる。
オルタナティブな技術とはまず@エコロジカルに問題ないことAシンプルなことBローコストC地域社会になじむことD持続可能なことE他の地域へ技術移転が可能なことF循環的なことであり、持続可能な発展とは、@ヒューマンAエコロジカルB経済的に可能C適正な技術を用いているD社会的にフェアーなことEそこの文化になじむことF科学的であること。以上のどの条件を欠いてもいけないというわけである。きわめてラディカルですっきりした定義だと思う。

  福岡正信氏の自然農法に影響され、それに自分は風車とメタンを付け加えたという。数等程度の豚とトイレの排泄物はメタン発酵され燃料になる。発酵後の水分は浄化池に行き、固形分は有機農業家へ肥料として分けられる。浄化池は数メートル四方程度の広さで4種類の浮き草、藻、9種類の魚が共生することで汚染が浄化され、畑へ行く。浄化池がいくつかあり、昼食はそこの魚の料理であった。ファームの中心部にシンボルの直径4メートルほどの灌漑用多翼式揚水風車がそびえている。車の部品などを再利用してつくったのだそうだ。地下水は汲み上げられ、灌漑に用いられる。水循環が成り立っているわけである。

  ここは人間がいかにして自然と共存するか実践的に提起しているのだ。開園以来いろんな人がひっきりなしに見学に来ているという。フィリピンだけでなくアジア全体に広める構想だとか。これからの社会を考える時大変参考になる試みだと思った。

 

 

 

ジオ・ファーム


小堀直子

 

  ここの農場主は恵まれた経歴の持ち主のようで、スイスで長く過ごし銀行やコンピューターの会社に勤め、日本の多くの脱サラで農業を始めた人と同じように、日々の暮らしに疑問を感じ(ダイビング中に自然の素晴らしさに気付いたそうで、そこで出会った本が福岡正信さんの"わら一本の革命"だったとのこと!)故郷のフィリピン・パンガシナン州で農業を始めたそうだ。彼の父親は大地主のようで大きな農場がみられたが、種の保存の意味もありフィリピン中の樹木を植えているという。(私は「客寄せ」のような印象を受けた。また、みやげや商品がそれらしく売られていたこともしっくりこなかった)。

  今、農場の主な収入源は、肥料の販売や、見学、宿泊などの研修費等で、来年には、日本やアジアの国にジオ・ファームを作りたいとのことだった。動物や人間の排泄物等でバイオガスを作る装置や風力発電などは手作りしたという。質素で無駄のない生活は、見習いたいと改めて思う。鯨の形をしたスイミングプールも手作りで、地下水を汲み上げ、使った水は潅漑用に利用するという。無駄なく利用している。食器もズイキの太いような竹のようなのにのせて、手で食べた。腹具合の悪い息子には、気功のように手で、治療(?)を施してもらった。もう1度行ってみたいと思わせるジオ・ファームだった。

 

 

 

9月6日 バタンガス


浜本弘也

 

 日本のODAを導入して進められているカラバルソン計画は、広大な森林や海岸を破壊し、住民を強制排除し、商工業地域化のために整地し、すでに火力発電所が公害をまき散らしているという、典型的な悪しき開発計画だ。フィリピン政府は、そこに原発建設計画もつけ加えたけれど、やはり住民には何も知らせず、地元で反対運動が組織されるにはいたっていない。

 私が9月6日に訪れたバタンガスの原発建設候補地は、ゆたかなヤシの林に囲まれ、質素な暮らしをする人々の集落があり、日本では目にすることのできない美しい海がある。そこに原発が建ち、商工業施設がその電力を消費して利益を上げ、その利益が日本企業に吸い取られる仕組みが、着々と作られている。近くにゴルフ場の計画まであるという。

 投資するなら、地元住民のニーズに見合った生活基盤の整備が先決ではないだろうか。巨大ショッピングセンター建設のために伐り開かれた広い土地を見て、そう思わずにいられなかった。地元の人たちは、雑貨屋のような小さな店で買い物をしているのだ。

 

 

 


鷲尾由紀太

 

カラバルソン計画はアキノ政権時代に動き始めた開発計画で、JICAの報告書がもとになっている。対象地域はマニラの南郊のカビテ、ラグナ、バタンガス、リサール、ケソンの5つの州。これらの州名を略して「カラバルソン」と呼ぶ。5日のデモのとき「フィリピン2000反対」というプラカードがあったけど、この「フィリピン2000」は、開発を最優先して2000年までに新興工業国になるというラモス政権の政策スローガンである。カラバルソン計画はこの経済目標に包み込まれて進行している。

  カラバルソン計画を批判しているNGOのノリーさんに話を聞いた。インドネシアのナナさんは「うちでも同じような問題がある」と言い、台湾の許さんは「台湾でもゴルフ場は投機目的で急増して100ヶ所以上もある」と話す。100ヶ所以上というのにコラソンさんは驚いていた。

  カラバルソン計画の一環として、日本のODA(円借款)でバタンガス港を拡張する事業では94年に立ち退きと家屋取り壊しを強行する警察官が発砲し、サンタクララの住民の太股に縦断が貫通した。それでも日本のODAは解禁され、続いている。「誰のための開発なのか」とノリーさんは強調した。

  一週間も一緒にいたからうちとけて、話も弾んだ。竹串に刺して油で揚げたバナナを食べた。ミンダナオの人は往きは飛行機で来たけど、帰りは船で二日かけて帰るという。ショウコンはとっても美しいところだという。原発立地点が、都会から離れた自然の豊かなところであるのは、どこの国でもほとんど例外がないらしい。
バタンガスの浜も美しい。漁船があった。台湾の人たちは気に入って、予定を変更してそこにもう一泊することにした。私も日程が許せばそうしたかった。

 

 

 

楽しかったフィリピン!


奥野純也

 

ぼくはフィリピンに行ってよかったと思う。
フィリピンに行かず、ずっと日本にいたままでは知ることのできなかったものや見ることのできなかったものがたくさんあったと思う。
特に、フィリピンのきれいな海は日本ではなかなか見れないと思う。
青色に少し緑色を加えた感じで、すごくきれいだった。
あんなきれいな海はぼくの知る限り日本にはほとんど残っていないと思う。
あの海は日本の海のようにはなってほしくないと思った。
他に日本と違うと思ったことは、車の排気ガスの量が日本よりも多い事と、信号がほとんどない事だった。
最初はすごくとまどっていたけど、三日目ぐらいにはなれてしまった。
ぼくはその時「人間の環境適応能力ってすごいなあ」と思った。
日本と比べると全然違うけど、ぼくは、フィリピンに行っている間あまりフィリピンにいるっていう実感がなくて、逆に日本にいるのと同じような感じだったけど、日本に帰って来てからフィリピンに行っていたという実感があった気がする。
日本よりフィリピンのほうが一日一日が楽しかった。
「またフィリピンにいきたいな」と思った。

 


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