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☆ 台湾の反原発運動を訪ねて☆

菅井益郎(国学院大学)


  4月24日から28日まで、台湾環境保護連盟の要請もあって台湾に出かけて来ました。柏崎に建設された ABWR(135万6千キロワット)2基が台湾へ輸出されることが決まったために、ABWRの問題点について話にきてくれというのです。3月に建設予定地の塩寮の住民を主体に20人ほどが来日し、国会議員への要請行動や日立、東芝、三菱への抗議行動を行いましたが、その折もたれた交流集会で意見交換をしたのがきっかけで出かけることになったものです。
  台湾では原発は「核電」といわれていますが、これまで3地点で2基づつ計6基が運転しています(台湾の原発については宮嶋信夫編著『原発大国へ向かうアジア』平原社刊を参照してください)。第四原発(核四廠)については、繰り返し発生した事故や被曝者の続出、周辺海域での奇形魚の発生、放射性廃棄物の処分場問題、第二原発から売却されたといわれる放射能汚染鉄屑の再利用による100棟を超える汚染ビルの問題などなどにより、地域住民のみならず環境保護団体や野党民進党を含め、強力な反対運動が続けられ、計画は凍結されていたのです。
  ところが昨年秋、政府は卑劣な議会工作をもって、野党側が退場する中で、いったんは凍結されていた原発予算を単独採決し復活させました。しかし日本と台湾は正式な国交がなく、原子力協定もないことから生ずるさまざまな問題点はまだこれからクリアしなければなりません。GEを主契約者として建設するという理由もその辺にあるのではないかと思われます。本体は東芝、日立連合、三菱はタービンを輸出することになっているようですが、責任の所在とか、いろいろな点でまだまだネックになるところがたくさんあるということです。建設主体は国営の台湾電力龍門施工所です。第四原発建設予定地を訪れた時のことは後で触れることにします。

  さて、台湾ではもっぱら台北近辺を中心に、朝、昼、晩と日に2〜3回、結構ハードなスケジュールで話し
をして回りました。おおまかにいうと、着いた日の夜は歓迎の夕食会、それを終えて、台湾環境保護連盟や緑党の数人の活動家を相手に、持参した原発事故に関するスライド(メアリー・オズボーンさんが持っている奇形植物やTMI原子炉の中の溶融しかけた燃料棒などの写真)や、チェルノブイリ原発事故に関するスライド(事故炉とその内部状況や事故後の被災地の写真など)を見せながら話しました。ホテルに戻ったのは12時過ぎでした。

  25日は台湾環境保護連盟の人たちと金山という台北の北西の地域に出かけ、地元の反対派の人たちと第二原発(BWR、98.5万キロワット2基)で、所長と若干の交渉を行うとともに、低レベル廃棄物貯蔵庫を見ました。地元の人たちも初めてといっていました。住民側はホリバの放射線測定器数台とロシア製の測定器1台を持ち込みました。門前で発電所側の測定器の方が住民側の測定器(いずれもホリバ製)より0.1マイクロシーベルトほど低い値を示したため論争になりました。
  その後金山地域の代表者の人たちに話した後、第一原発(BWR、63.6万キロワット2基)も訪れました。ここでは「反核派は歓迎しない」と最初からきわめて横柄な応対しかしないので、強く抗議して応接室を出ました。これまでも住民側と相当のやり取りがあったようです。夜は「台北の声」というFM放送だったと思いますが、通訳の人を介して日本の破綻した原子力開発政策とABWRの問題点について話し、さらにその後で、主な活動家20数人を相手に夜遅くまで原発を取り巻く社会的経済的問題や事故について話しました。

  翌26日はチェルノブイリ原発事故11周年で、汚染ビルの前で集会、日本の原子力開発政策が破綻したこと、台湾同様日本でも放射性廃棄物の捨て場にいよいよ困り果てている現状について話し、午後は新聞とテレビの記者相手に日本の「崖っ縁の」原発産業(「日経」4月22、23日)とABWRの問題点について解説、続いて中心的な活動家にスライドとOHPを用いてABWRの技術的問題点についてやや詳しく説明し、夜は台北から車で1時間くらいのところ(西北西の方向)にある淡水駅前の集会で話しました。ここでは通訳の方が見えず、英語でやれば台湾環境保護連盟のメンバーが翻訳するということになりかけましたが、幸いにも会場で募ったところ日本語をまだよく覚えているおじいさんが通訳を引き受けてくれました。彼は次第に雰囲気に乗り、にわかコンビでしたが、活弁風でなかなかのものでした。日本の植民地時代に日本語を強制されたために、台湾の70歳以上の人たちには今も日本語をよく話すことのできる方が少なくありません。今回もそうした人たちにずいぶん手伝ってもらい助かったのですが、素直にありがたいと思うと同時に、いつものことながら歴史を専門としている者として複雑な気持ちを禁じえませんでした。台湾滞在中はボランティアの方が交代で通訳をしてくれました 。

  3日目の27日、ようやく目的の塩寮(当局は龍門と称している)に行きました。第四原発建設予定地の貢寮郷塩寮村は、台北の東方、直線距離で40キロあまりのところにあります。途中、山があるため車で行くときは基隆周りでいくために1時間半ほどの道のりで、当日は日曜とあって渋滞でかなり時間をとりました。台湾環境保護連盟の人たちと行ったのですが、基隆を過ぎ美しい海岸に沿って小一時間あまり走ると塩寮に着きました。

  貢寮郷は全部で11カ村から成り、予定地の塩寮周辺には4カ村があります。貢寮郷全体の人口は約1万8千人、その内塩寮には約5千人が住んでいます。塩寮は貢寮郷の中心的な村で、海岸道路沿いには新しい鉄筋コンクリート造りの大きな家が並び、観光と漁業で成り立っていることをうかがわせました。塩寮産の魚介類は台北では新鮮でおいしいと高く評価されているということでした。

  塩寮では反核自救会の人たちと現地視察した後(ただし自救会の視察申込みに対して、責任者がいないとして拒否回答があって敷地内には入れず、敷地全体を見渡せる丘の上の立派な廟までいったところ、これも霧で見えず、中腹から見る)、自救会の主だった人たち20数人にABWRの主な問題点やすでに柏崎で発生した事故、日本の原子力状況、特に運動のあり方、漁民の運動の重要さなどについて話しました。彼らも「もんじゅ」や動燃東海の事故についてはテレビなどでよく知っており、技術の進んでいる日本でもこれでは台湾ではもっと危険だ、との発言が繰り返されました。
  1時間半くらい話したところで、若手のひとりから「4月30日の漁業権に関する説明会に、残ってもらってはどうか、都合はどうか、ぜひ残ってもらいたい」という発言と提案がなされ、皆が同調するものだから大いに困ってしまいました。そこで一日なら残ることも可能だけれど、飛行機の予約変更とか難しいだろうと応えると、その時から集まった人々の間で30日の説明会に対する取組みに向けての議論が始まりました。それぞれが自分の主張をはっきり述べ、たいへん白熱した議論となりました。台湾環境保護連盟の活動家も私もただ見ているだけでした。
  漁業権の説明会というような問題が目の前にあるのであれば、最初に塩寮に来るべきであったと思いましたが、それはまったく知らなかったことなので致し方なし。帰るべき時間が来たので、最後に議論の真っ最中でしたが、日本では漁業権を守ることと原発建設阻止は同義だと話し、心残りしながら塩寮を後にしたのでした。なおここでは当然ながら英語はまったく通用しませんでしたが、やはり70歳以上の人たちのほとんどが日本語をよく話し通訳してくれました。

  帰る日の28日の午前中は、台湾大学の高成炎さんと汚染ビルの被曝問題に取り組んでいる放射能安全促進会の許思明さんと、原子力委員会の核能管制所所長(日本の原子力安全局長?のようなポストか)を訪ねました(前もって許さんが約束を取り付けてあった)。これは高さんの案のようでしたが、乗り掛かった舟なのでいっしょに行きました。とにかくABWRはまだ世界に2基しかなく、故郷の柏崎は実験場であり、たいへん危惧していると話しました。所長はなかなか英語が達者で舌を巻きましたが、アメリカの型式認証の手続きの進行状況を全部知っている風ではなさそうでしたので、型式認証が遅れた理由と論点について問い、まだ問題点がたくさんあるので再検討するよう話しました。
  彼は昨年柏崎に行ってきたが、素晴らしい原発だ、地域も原発で発展していると、教え込まれた通り話しましたが、実はそうではない、ちっとも発展してなどいない、これから原発にまつわる交付金も税収も減る一方だと説明し、東京電力や推進側が自分たちによくないことを話すわけがないだろうとたしなめると、そのことは素直に認めました。彼はインターナルポンプの事故のことは知っていましたが(試運転中のことだからと、軽く見ていたので厳しく問う)、燃料棒のひび割れについては余りよく知らないようでした。ともかくまだ実証されていない原子炉だから、問題点について調べ直したほうがよいと話しました。

  核四の環境アセスメントについては問題があることを認めていましたので(当初の100万キロワットを135.6万キロワットに変更しながら一夜にして影響評価の結論を出したという事実)、住民の安全を確保する責任のある立場にいる人間としてはやり直すのが当然ではないかと、3人で強調しました。高さんは柏崎でつくったABWRのパンフ一部を所長に渡し、繰り返し再検討を促しました。所長は当たりはソフトで、これまでも被曝ビルなどの問題などでは話しをよく聞く態度をとっているとのことでしたが、汚染鉄屑が第二原発がらでた物とは決して認めませんでした(住民側はその証拠を掴んでいる)。
ともかく漁業権の説明会が始まったということで、塩寮は緊迫感が増しています。

  以上が小生の今回の行動の主なところですが、かなりタイトなスケジュールでした。最後の27日の夜だけは市内散歩に出かけ、台北の夜店を見せてもらいました。雑踏、また雑踏、毎日がお祭りのにぎやかさということです。なおわずか4泊5日の台湾滞在でしたが、たくさんの方々のお世話になりました。また彼らとの交流を通じて台湾のおかれている現状、およびその社会と歴史についてきわめて多くのことを考えさせられました。台湾社会に対するこれまでの認識の浅さを痛感させられた台湾訪問でした。

(本文は『木曜通信』1997年5月22日号に掲載したもの)

 


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